家紋で見る戦国大名 明智家
こんにちは、グルコースです。
戦国シミュレーションゲームで有名な「信長の野望」などでは、各戦国大名のシンボルとして、家紋が使われています。
地図上で、各大名の所有する領土(城)を示すのに家紋が使われていますので、私もそうでしたが、初めのうちは家紋だけ見てもどの大名か分からず、苦労した覚えがあります。上級者(?)の方になると、さすがに家紋を見ればどの大名か分かるようになりますが、家紋自体の名前や詳細など、家紋をまじまじと見たりはしない方もいるのではないでしょうか。
そのような方向けに、戦国大名の家紋を紹介していきたいと思います。
家紋は、歴史ドラマなどでも、旗などに描かれたりしますので、覚えておくとより深く楽しめると思いますよ。
明智家の家紋 「水色桔梗」
今回は、明智(あけち)家です。
明智家で最も有名なのは、明智光秀(みつひで)でしょう。 織田(おだ)家臣ながら、本能寺の変で主君の織田信長(のぶなが)を討ち、一時は自立しましたが、同じ織田家臣だった羽柴秀吉(はしば ひでよし)に敗れて命を落とした武将です。2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で主人公に取り上げられてますね。正確には戦国大名と言えるかは微妙ですが、「信長の野望」では、シナリオによっては大名と位置付けられているので、良しとします(笑)。
明智家の概要
明智家は、室町時代に美濃国(みののくに、今の岐阜県)の守護(国主みたいなもの)をしていた土岐(とき)氏が祖先であると言われています。土岐氏は、室町時代には全国でも有力な守護大名で、清和源氏(せいわげんじ)、さらに言うと平安時代に「鬼退治」をした伝説で有名な源頼光(みなもとの よりみつ)の子孫になります。
清和源氏というと、鎌倉幕府を開いたことで有名な源頼朝(みなもとの よりとも)もそうですが、土岐氏とは最初の祖先が兄弟同士で別の家になります。
明智光秀は、実は前半生はよく分かっていない部分が多いようです。
一時は医者だったという説もあるようですが、一般的な説としては以下のようなものです。
元々美濃国の生まれで、当時美濃国の実力者となっていた斎藤道三(さいとう どうさん)の家臣となりましたが、斎藤道三・義龍(よしたつ)親子の争いで、敗者の斎藤道三側に立っていたことから、美濃国にいることができなくなり、越前国(えちぜんのくに、今の福井県)に逃れます。
そこで当時の越前国の戦国大名だった朝倉義景(あさくら よしかげ)に仕えるようになっていたところ、前の将軍の弟である足利義昭(あしかが よしあき)が朝倉義景を頼ってやってきます。足利義昭は、兄を謀反で亡くしており、自身が将軍となるのに後ろ盾となってくれる大名を探していたのですが、当の朝倉義景は動こうとしませんでした。
そんな中、代わりに織田信長を薦めたのがきっかけで、光秀は足利義昭に仕えるようになり、その後、同時に織田信長の家臣にもなります。
しかし、織田信長と足利義昭が対立すると織田家臣一本となり、急速に出世し織田家の重臣の一人となりますが、1982年、京都の本能寺(ほんのうじ)に宿泊していた織田信長を軍勢で襲い殺害します。有名な本能寺の変ですね。
これにより、明智光秀が一時的に織田信長にとって代わる地位になり得たわけですが、同じ織田家臣だった羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が、赴任地の中国地方から各地の織田軍をまとめながらあり得ないスピードで京都付近まで戻り、山崎(やまざき)の合戦にて光秀は敗北、本拠地の坂本城に戻る途中で落ち武者狩りに合い命を落とします。その妻子と娘婿の明智秀満(ひでみつ)もその後自殺し、大名としての明智家は滅亡します。
本能寺の変から短期間だけの天下人だったことから、短い期間だけ権力を握るという意味の「三日天下」の語源になったと言われていますね。(実際には、本能寺の変から山崎の合戦で敗れる間、10日以上はあったのですが)
明智家の家紋
明智家の家紋は「水色桔梗(みずいろききょう)」です。
白黒がほとんどの日本の家紋の中では珍しく水色の家紋で、織田信長もうらやましがっていたと言われています。
「水色桔梗」は、桔梗紋の一種です。
桔梗紋は、植物のキキョウを基にしたものです。 桔梗紋は、土岐氏の家紋であり、明智家含め、その分家が桔梗紋を使っています。
しかし、明智光秀の死後、一時は「裏切り者の家紋」と言われ、避けられたようです。実際、桔梗紋から他の紋に変えた家もあったとか。
同種の家紋の人物・家
他に葵紋を使っている人物・家としては、以下が有名です。