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家紋で見る戦国大名 北条家

こんにちは、グルコースです。

戦国シミュレーションゲームで有名な「信長の野望」などでは、各戦国大名のシンボルとして、家紋が使われています。

地図上で、各大名の所有する領土(城)を示すのに家紋が使われていますので、私もそうでしたが、初めのうちは家紋だけ見てもどの大名か分からず、苦労した覚えがあります。上級者(?)の方になると、さすがに家紋を見ればどの大名か分かるようになりますが、家紋自体の名前や詳細など、家紋をまじまじと見たりはしない方もいるのではないでしょうか。

そのような方向けに、戦国大名の家紋を紹介していきたいと思います。

家紋は、歴史ドラマなどでも、旗などに描かれたりしますので、覚えておくとより深く楽しめると思いますよ。

北条家の家紋 「北条鱗」

今回は北条(ほうじょう)家です。

戦国時代、関東の覇者として5代にわたって君臨した北条氏(後北条氏)です。

戦国時代の北条氏で有名なのは、初代の北条早雲(そううん)、3代目の北条氏康(うじやす)、4代目の北条氏政(うじまさ)でしょう。

北条家の概要

戦国時代の北条家の初代北条早雲は、元々は伊勢盛時(いせ もりとき)と名乗っていました。 しかも、北条氏を名乗るのは、2代目の北条氏綱(うじつな)の時からです。 そのため、実は本人は北条早雲と名乗ったことはありません。 また、早雲という名前は、出家した時の名前である早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)に由来しています。

北条早雲こと伊勢盛時(ここからは便宜上、北条早雲と呼びます)の出身は、長く議論されてきましたが、今では室町幕府の役職の1つである、政所執事(まんどころしつじ、室町幕府の財政を担当する役所の長官)を世襲した伊勢氏の一族であると言われています。 その中でも、備中国(びっちゅうのくに、今の岡山県)に住んでいた一族という説が有力のようです。

そんな早雲が関東と接点を持つのは、彼の姉(妹ともいわれる)が、駿河国(するがのくに、今の静岡県)の守護である今川義忠(いまがわ よしただ)の奥さんとなったのがきっかけでした。 当時、駿河国というのは、関東への入り口という位置づけであり、代々守護を務める今川氏は、関東と深い関わりをもっていました。

早雲の姉は、嫡男(後継ぎ)の今川氏親(うじちか)を生みますが、その後、今川義忠が戦死してしまいます。 当時、氏親はまだ幼く、一部の家臣は、一族の小鹿範満(おしか のりみつ)を後継者として推し、家中を二分する家督争いとなります。

そこで、北条早雲駿河国へ赴き、氏親が成人するまでは小鹿範満が代理で家督を務めるということで、争いを収めます。 しかし、その後、氏親が成人しても小鹿範満が家督を返そうとしなかったため、北条早雲は再び駿河国へ行って小鹿範満を討ち、今川氏親家督を継承しました。

この功績の褒美として、早雲は興国寺城(こうこくじじょう)を与えられたのが、北条氏が関東に進出する第一歩となりました。

早雲はその後、当時隣国の伊豆国(いずのくに、今の静岡県など)を治めていた堀越公方(ほりこしくぼう)の茶々丸(ちゃちゃまる)を攻めて滅亡させて伊豆国を手に入れ、さらに相模国さがみのくに、今の神奈川県)まで手中に収めます。 そして、家督を嫡男の氏綱に譲り、亡くなります。

後を継いだ2代目の氏綱は、関東を治めるために、伊勢という名字を改め、鎌倉時代に執権(しっけん)として相模国に君臨した、北条氏を名乗ることにしました。 現在では、北条早雲から始まる戦国大名の北条氏は、鎌倉時代の北条氏と区別して、後北条氏(ごほうじょうし)と言われます。

氏綱は、他の歴代当主に比べ目立たない印象がありますが、この北条氏への改姓の他、父からの領地を受け継ぎ、武蔵国(むさしのくに、今の東京都・埼玉県など)や下総国(しもうさのくに、今の千葉県など)へ勢力を拡大したり、本拠地を小田原城(おだわらじょう)へ移したり、領国の支配体制を固めたりと、北条氏が長く続く基礎を作っています。 また、北条氏は元々今川氏の家臣という位置づけでしたが、氏綱の時代に今川氏と手を切り、戦国大名として独立します。

氏綱の後を継いだ3代目の北条氏康は、北条氏の最盛期を作ったと言われています。 氏康が跡を継いですぐに、北条氏最大の試練とも言える、河越夜戦(かわごえやせん)が起きます。 室町時代、関東は幕府の出先機関である鎌倉府(かまくらふ)が治めていました。鎌倉府の長官は鎌倉公方かまくらくぼう)、後に古河公方(こがくぼう)と呼ばれ、代々足利(あしかが)氏が務めていました。また、それを補佐する役職である関東管領(かんとうかんれい)は、代々上杉(うえすぎ)氏が務めており、その中でも、山内上杉(やまのうちうえすぎ)氏と扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏が有力でした。 つまり、足利氏、山内上杉氏、扇谷上杉氏が室町時代の関東の支配者でした。 この3者は長く戦っていましたが、北条氏綱の時代、扇谷上杉氏の本拠地であった、河越城(かわごえじょう)を北条氏に奪われてから危機感を覚えます。

そこで、当時の各家の当主である、足利晴氏(はるうじ)、山内上杉憲政(のりまさ)、扇谷上杉朝定(ともさだ)は、和睦し、若い北条氏康家督を継いだタイミングで、結束して北条氏を倒すことにしたのです。

彼らは、駿河今川義元(よしもと)とも結束し、北条氏を挟み撃ちにする作戦に出ます。 まず今川氏が駿河の北条領に攻め込みます。 これに対し、北条氏康は主力を率いて駿河へ向かったタイミングで、古河公方関東管領の名のもとに関東中の武士を動員して、8万ともいわれる軍勢で河越城を包囲したのです。

当時、河越城を守っていたのは、北条氏康の義理の弟の北条綱成(つなしげ)で、城にはわずか3千程度の軍勢しかいなかったと言われています。 しかし、勇猛で知られた綱成は、8万という大軍を相手に、籠城して持ちこたえます。

その間に、氏康は急ぎ今川氏と和睦を結び、河越城へ取って返します。 しかし、北条氏康の軍勢は8千と言われており、8万の相手と普通に戦っても勝ち目はありません。

そこで、氏康は、足利晴氏山内上杉憲政、扇谷上杉朝定に対し、和睦の申し込みをします。 3人はこれを拒否しますが、多勢に無勢な上に、ひたすら和睦をしようとする氏康の態度に、すっかり勝ちムードとなります。

そして、気が緩んだある日の夜、北条氏康軍は、突然上杉憲政軍に奇襲を仕掛けます。すっかり気が緩んでいた憲政軍は混乱、単に動員されてきていた武士たちは逃亡し、憲政軍は敗走します。 続いて、扇谷上杉朝定軍にも攻めかかり、同様に打ち破ります。

河越城にいた北条綱成は、これを好機と見て、城内の兵を連れて、残っていた足利晴氏軍に奇襲を仕掛け、敗走させます。

こうして戦いは北条氏康の勝利に終わります。 この戦いの結果、扇谷上杉朝定は戦死し、後継者のない扇谷上杉氏は滅亡します。 また、本拠地に逃げ帰った山内上杉憲政と足利晴氏も、間もなく北条氏康に本拠地を攻められ、上杉憲政越後国(えちごのくに、今の新潟県)へ逃亡、足利晴氏は降伏し、北条氏の支配下に入ることになります。

これにより、関東の覇者としての北条氏の地位が確立しました。

北条氏康はその後、和睦した今川義元と同盟を結び、同様に対立していた甲斐国(かいのくに、今の山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)とも同盟を結びます。 この3者同盟は、それぞれの本拠地(甲斐、相模、駿河)の名をとって、甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)と呼ばれ、これにより、北条氏康の西側の国境は安定し、更に関東の領地を広げていきます。 しかし、桶狭間(おけはざま)の合戦にて今川義元が戦死すると3国うち今川氏が衰退していき、武田信玄が今川領に侵攻したことで三国同盟は消滅し、以後武田氏とは再び敵同士となります。

氏康の後を継いだ4代目の北条氏政も、同様に関東の領地を広げていき、彼の時代に北条氏の領地は最大となります。

氏政の時代になると、中央では織田信長(おだのぶなが)が天下人として君臨し始めており、武田氏も信長に滅ぼされます。 北条氏政は、初めは信長に臣従の姿勢を見せていました。

しかし、本能寺の変(ほんのうじのへん)にて織田信長が死ぬと、その混乱に乗じて、織田氏の持っていた旧武田領に侵攻し、最終的には徳川家康(とくがわいえやす)と旧武田領を二分します。

この少し前に、氏政は家督を息子の北条氏直(うじなお)に譲っていますが、北条氏のトップは、相変わらず氏政のままでした。

その後、織田信長の後継となった、豊臣秀吉(とよとみひでよし)への臣従を拒否する形となり、日本の半分以上を支配下に入れた秀吉の討伐を受けます。

氏政・氏直は小田原城に籠城しますが、約20万といわれる豊臣軍にはかなわず、降伏します。 結果、氏政は切腹を命じられ、氏直は高野山にて謹慎の後、赦されたものの、後継者がいないまま死去します。 北条氏は、氏政の弟である北条氏規(うじのり)の子である北条氏盛(うじもり)が継ぎ、河内国(かわちのくに、今の大阪府)の狭山(さやまはん)藩主となり、小さいながらも大名として幕末まで存続しました。

北条家の家紋

北条氏の家紋は、「北条鱗(ほうじょううろこ)」です。

北条鱗

「北条鱗」は、鱗紋の一種です。

鱗紋は、正三角形や二等辺三角形からなり、形が蛇や龍の鱗を連想させるということで、名付けられたものです。

「北条鱗」は、三角形を3つ重ねた3つ鱗と呼ばれる紋の一種で、構成する三角形が正三角形でなく二等辺三角形であるところに特徴があります。

鎌倉時代の執権であった北条氏も三つ鱗を家紋としていたことから、戦国時代の後北条氏も同様に三つ鱗を家紋としました。

同種の家紋の人物・家

他に鱗紋を使っている人物・家としては、以下があります。 いずれも、北条氏・後北条氏の末裔と言われています。

  • 平野長泰(ひらのながやす): 戦国時代の豊臣家家臣。賤ヶ岳七本槍(しずがたけしちほんやり)の1人と言われる → 丸に三つ鱗

  • 江馬(えま)氏: 飛騨国(ひだのくに、今の岐阜県)の有力領主 → 三つ鱗