家紋で見る戦国大名 徳川家
こんにちは、グルコースです。
戦国シミュレーションゲームで有名な「信長の野望」などでは、各戦国大名のシンボルとして、家紋が使われています。
地図上で、各大名の所有する領土(城)を示すのに家紋が使われていますので、私もそうでしたが、初めのうちは家紋だけ見てもどの大名か分からず、苦労した覚えがあります。上級者(?)の方になると、さすがに家紋を見ればどの大名か分かるようになりますが、家紋自体の名前や詳細など、家紋をまじまじと見たりはしない方もいるのではないでしょうか。
そのような方向けに、戦国大名の家紋を紹介していきたいと思います。
家紋は、歴史ドラマなどでも、旗などに描かれたりしますので、覚えておくとより深く楽しめると思いますよ。
徳川家の家紋 「徳川葵」
今回は、徳川(とくがわ)家です。
戦国時代の後、約260年続く江戸幕府を作った徳川家康(いえやす)の家です。
徳川家康は、元々は三河国(みかわのくに、今の愛知県)の小豪族である松平(まつだいら)家に生まれ、一時は駿河の今川義元(いまがわ よしもと)の人質になりますが、今川義元が桶狭間(おけはざま)の合戦で戦死したのをきっかけに独立して織田信長(おだ のぶなが)と同盟を結び、織田信長の死後はしばらくは独自の動きをしましたが、その後豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の配下の重鎮となり、最終的には豊臣家を滅ぼし、江戸幕府を開いた超有名人ですよね。
徳川家の概要
徳川家は、徳川家康以前は松平家であり、徳川家康が三河を平定したタイミングで名字を「徳川」に改めたのが始まりです。
松平家は、もともと三河国の小豪族でした。戦国時代の三河国は、早いうちに守護不在となり、各地を豪族が治める土地でした。そんな中、家康のおじいさんに当たる松平清康(きよやす)は、三河国の広い範囲を手に入れ、頭一つ飛び出た存在となりますが、家臣の裏切りにあって殺されてしまいます。後を継いだ家康のお父さんの松平広忠(ひろただ)も若くして亡くなり、幼かった家康はお隣の遠江国、駿河国(とおとうみのくに、するがのくに、いずれも今の静岡県)を治める大名である今川義元の下で(人質として)育てられます。
桶狭間の合戦の頃には、家康は松平元康(もとやす)と名乗り、今川家から一軍を任される武将となっており、尾張国に出陣していました。しかし、桶狭間の合戦で今川義元が戦死すると、今川には戻らず、そのまま三河で独立します。この際、「元康」から「家康」に改名しています。「元」の字は、今川義元からもらった字のため、今川との決別を宣言したのです。
その後、織田信長と同盟を結び、苦労の末に三河国全体を掌握したタイミングで、名字を「徳川」に改名し、「徳川家康」となりました。
名字を徳川に改めたといっても、そう名乗ったのは家康のみであり、他の一族は松平家のままでした。江戸時代でも、徳川将軍家の親戚の名字が「松平」であるのもそのためで、江戸時代、「徳川」を名乗れるのは、将軍家といわゆる御三家(尾張藩主、紀伊藩主、水戸藩主)、そして途中からは御三卿(田安家、一橋家、清水家)のみでした。松平一族の中でも特別な家だけが徳川を名乗れたわけです。
江戸幕府は、15代目将軍の徳川慶喜(よしのぶ)の時に滅亡、慶喜は隠居しますが、徳川家の家督は田安家の徳川家達(いえさと)に譲っており、徳川家は今も続いています。
徳川家の家紋
徳川家の家紋は、「徳川葵(とくがわあおい)」です。
通称「三つ葉葵」と言われ、おそらく日本で最も有名な家紋の1つではないでしょうか。
時代劇の「水戸黄門」で、悪人を懲らしめた後、「この紋所(もんどころ)が目に入らぬか!」と言って取り出した印籠に載っているあのマークです。水戸黄門のモデルの徳川光圀(みつくに)は、水戸徳川家なので、同じ「三つ葉葵」でも、厳密には徳川葵とはちょっと違うのですが、まぁ細かいことは良しとします(笑)。
「徳川葵」は、葵紋の一種です。
葵紋は、植物のフタバアオイを基にしたものです。元々は京都の賀茂神社の紋が発祥のようです。
基本的に、徳川家、松平家はみんな「丸に三つ葉葵」なのですが、よく見ると、どれも細かいところが違っています。また、同じ徳川葵でも、時期によっても、若干違いがあるようです。
江戸時代、基本的には、徳川家、松平家以外が葵紋を使うことは許されませんでした。
同種の家紋の人物・家
他に葵紋を使っている人物・家としては、以下が有名です。 徳川・松平家は、葵紋がほとんどのため、それ以外で。