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本能寺の変 431年目の真実 レビュー

こんにちは、グルコースです。

皆さんは、本能寺の変(ほんのうじのへん)はご存じの方多いかと思います。

1582年、戦国時代にあって、天下統一目前と考えられていた戦国大名織田信長(おだ のぶなが)が、京の本能寺に滞在しているところを、家臣である明智光秀(あけち みつひで)に討たれた事件です。

この事件により、織田領となって間もない信濃国(しなののくに、今の長野県)以東に派遣されていた織田家武将が追い出された挙句、周辺の戦国大名によって分割占領され、織田家中もしばらくの間、後継者をめぐる派閥争いが起こり天下統一から一時大きく後退しました。

また、織田信長を討った明智光秀は、間もなく任地から軍勢を引き連れて戻ってきた織田家臣の羽柴秀吉(はしば ひでよし)に敗北して命を落とし、最終的には羽柴秀吉が実質的な織田信長の後継者となって、天下統一を果たすことになりました。

なぜ明智光秀は主君である織田信長を裏切ったのかについては様々な説があり、今も論争が続いています。

主なものをざっと挙げると以下があります。

  • 信長を討つことで代わりに自分が天下を取れると考えた(野望説)
  • 信長に普段から難癖をつけられ暴力を振るわれたり、光秀の母親が殺されるのを見捨てたり、領地を取り上げられたりして恨みがあった(怨恨説)
  • 信長に追放された室町幕府最後の将軍の足利義昭(あしかが よしあき)が指示を出していた(足利義昭黒幕説)
  • 信長に軽んじられていた朝廷が指示を出していた(朝廷黒幕説)
  • 織田家家臣でライバルだった羽柴秀吉が裏で工作をして光秀が謀反を起こすよう仕向けた(羽柴秀吉黒幕説)

これまで、上記の野望説+怨恨説(つまりこの両方)というのが定説として語られてきましたが、最近は他の説が盛り返してきているようです。

しかし、今回ご紹介する本は、上記とは全く異なる新しい説を唱えているものになります。

本能寺の変 431年目の真実

概要

この本は、なぜ本能寺の変が起こったかついて書かれた本で、著者はなんと、明智光秀の子孫とされている方です。

この本では、最初に、これまで冒頭に書いたような様々な説が唱えられているものの、いずれも、事件から百年後に書かれた文献や、歴史を基に創作された物語、当時の権力者(羽柴秀吉)による情報操作の可能性のある文献などを根拠としているため、問題があると指摘しています。

そして、これらの説に対し、著者は、信憑性のある事件当時の文献を洗い出し、それらを全て説明できるものが真実であるという、自ら「歴史捜査」と名付けた方法に基づき、独自の説を打ち出しています。

これは、これまでのどれとも異なる説で、本能寺の変というのは、実は信長の立てたある計画を、明智光秀が利用して、信長を殺害した事件である、というものです。さらに言うと、明智光秀自身も、その計画を別の人物に利用されてしまったことから命を落とした、ということになっています。

一見、突飛な説にも見えますが、「歴史捜査」というだけあって、事件当時の文献のみを基にその根拠を説明しており、説得力のあるものになっていると思います。

私が特に面白いと感じたのは、明智光秀が詠んだ和歌が改竄されている点を重要視している点と、スペインに残されていた、当時日本を訪問していた宣教師の記録についても納得感のある説明をしている点です。

問題の和歌は、本能寺の変の少し前に歌会で明智光秀が詠んだものです。

時は今 あめが下しる(したしる) 五月(さつき)かな

有名な歌なので、一度は聞いたことがあるかと思います。

この歌を単純に解釈すると、5月(今の暦でいう6月、つまり梅雨の時期)の雨が降る中で、単純にその雨の風景を読んだようにも思えます。 しかし、「時」というは「土岐(とき)」つまり明智家の祖先の土岐氏、「あめが下」は「雨が下」ではなく「天が下」、つまり天下、「しる」は統べると、それぞれ取ることができ、土岐氏である自分が天下を統治する5月になった、と読める、という考え方があり、明智光秀に天下取りへの野望があった根拠とされています。

しかし、著者は、そもそも本能寺の変が起きたのは6月のため、5月と詠むのはおかしい、という素朴な疑問を基に、この歌の書かれた文献の歌会の日付と、当時の天気の記録から、歌会があったとされる日が雨ではない、つまり文献に書かれた歌会の日付が誤っていることを明らかにします。

また、よく調べると他の信憑性のある文献では、

時は今 あめが下なる(したなる) 五月(さつき)かな

という異なる歌が書かれており、統治するなどという意味はなかったことを明らかにしています。

そして、このように違う歌が書かれたのは、当時の権力者である羽柴秀吉が、明智光秀に野望があったかのように見せかけるために、意図的に改竄したのだと結論づけています。

この辺りは、これまでどの説でも指摘されてこなかった点で新しいと感じました。

また、本能寺の変の際、本能寺を取り囲む軍勢の旗が明智光秀のものらしいということを聞いた信長の言葉として有名なものに、「是非に及ばず」というものがあります。 この言葉は、議論してもしかたがない、どうしようもない、というような意味であり、その言葉の解釈には諸説ありますが、個人的には、(おそらく謀反を起こしたのは明智光秀で合っているだろうから)本当かどうか確認する必要はない、というのがしっくりきます。

これに対し、著者は、本能寺の変の際に信長の言った言葉として、もう1つ別の言葉の記録がスペインに残っていることを指摘しています。

信長の時代は、ヨーロッパでは大航海時代に当たり、日本にはスペイン人の宣教師が多くきていました。

これらのスペイン人宣教師が、本国に送っていた報告の中に本能寺の変についての報告もあり、本能寺の変を知った信長は「余は余自ら死を招いたな」と言ったと書かれているそうです。

「余」というのは、昔の偉い人が自分のことを言う言葉なので、自分は自分自身で死を招いてしまったという意味になります。

一見、怨恨説で、明智光秀に恨まれていることを指しているともとれますが、著者は、実はもっと直接的に、信長自身が立てた計画を、明智光秀に利用されて自分が死ぬことになったという意味である、と指摘しており、その計画の内容も含めると、かなり納得感のある内容になっています。

詳しい内容は、ぜひ自分の目で確かめてみて下さい。

この記事を読んで、もし興味を持っていただけたら、ぜひ読んでみてください。

最近、この本の新版が出たようです。