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応仁・文明の乱(戦争の日本史9)レビュー

こんにちは、グルコースです。

応仁(おうにん)の乱、皆さん名前はご存じかと思います。

ただ、なんとなく概要は知っていても、なぜこの戦いが起きて、どのように戦いが推移し、終結したのかを詳しくご存じない方もいるのではないでしょうか。

特に応仁の乱は、戦いが起きた理由について、将軍家の後継者争いが原因という間違った理解をしている(教わっている)人が多いようです。かくいう私も、そのように教わった一人でした。

今回紹介するのは、そんな人にお薦めの本です。 ハードカバーで読み応えはありますが、応仁の乱の本当の原因と、戦いの推移、終結までを詳しく知ることができると思います。

もし、最初からハードカバーはちょっと、という方は、こちらでレビューしている「マンガ 日本の歴史22 王法・仏法の破滅ー応仁の乱」などを先に読んだ方が挫折しないで済むかもしれません。

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応仁・文明の乱(戦争の日本史9)

概要

戦争の日本史シリーズの「応仁・文明の乱」です。

応仁の乱は、1467年に、室町時代の京都で起きた戦いで、日本全国から集まった約数十万の軍勢が細川勝元(ほそかわ かつもと)率いる東軍と山名宗全(やまな そうぜん)率いる西軍とに分かれて約10年間戦い続けたものの、決定的な勝敗はつかずに和睦により終結しました。また、この戦いにより、京の都は多くの地域が焼け、一時酷い有様となりました。これ以降、日本各地で戦いが続く時代に入ることから、戦国時代の始まりとなる出来事とされています。ただし、戦国時代の始まりについては、別の出来事を挙げる説もあるようです。

前述の通り、応仁の乱は、戦いが起きた理由について、間違った理解をしている人が多いようです。

よく言われるのは、室町幕府(むろまちばくふ)の将軍である足利義政(あしかがよしまさ)が、弟の義視(よしみ)を後継者にしようとしたのに対し、義政の奥さんの日野富子(ひのとみこ)が息子の義尚(よしひさ)を後継者にしようとしたことで争いが起こった、というものです。

しかし今では、これは「応仁記」という書物の創作で誤りとされており、実際には、将軍家ではなく、管領(かんれい)という将軍の補佐をする役目を担ってきた家の後継者争いが、戦いの主な原因とされています。

この本では、前述の「応仁記」の、将軍の後継者争いが応仁の乱の原因としている点について、事実ではないことを説明した上で、三管領(さんかんれい)と言われる、代々管領を出してきた3つの家のうち、畠山(はたけやま)家、斯波(しば)家の家督争いが主な原因であるとしています。

そして、この応仁の乱が起きるまでの理由を、当時の第8代目将軍の足利義政の時代だけでなく、第6代目将軍の足利義教(よしのり)の時代にまで遡って、丁寧に説明しています。

また、なぜ「応仁記」が、将軍の後継者争いが原因であるかのように書かれているのか、についても簡単に触れられています。

戦いの経緯についても詳しく説明しており、初期の守護大名(しゅごだいみょう)同士の戦いから、足利義政・義視の東軍入り、足利義視の西軍への寝返り、そして和睦までの流れが、大体時系列順に説明されています。

戦いの後については、1493年の明応の政変(めいおうのせいへん)まで書いてありますが、それまでの内容に比べると簡単に触れる程度です。

なお、本のタイトルが「応仁の乱」ではなく、「応仁・文明(ぶんめい)の乱」なのは、戦いの始まった応仁の年号は3年までで終わり、残りの期間の年号が文明であるためです。

この記事を読んで、もし興味を持っていただけたら、ぜひ読んでみてください。