ちょっと詳しい歴史解説 応仁の乱 その1
こんにちは。ネコやんです。
クマゾーです。
ウサ子です。
今回は応仁の乱(おうにんのらん)について少し詳しく解説します。
ああ、応仁の乱なら学校で習ったよ。
私も名前くらいは聞いたことあるわよ。
応仁の乱は、1467年、室町時代(むろまちじだい)の京の都で起きた戦いで、各地から集まった武士たちが東軍と西軍に分かれて10年間戦った出来事だ。 その後日本各地で戦いが絶えない時代のきっかけとなった出来事として有名だね。
各地からって、どのくらい集まったんだろう。
その人数は両軍合わせて約数十万と言われている。
数十万!?
コミ〇みたいね。
まぁ、それはそれである種の人たちには戦いかもしれないけど・・・。それは置いておいて、日本史上最大クラスの戦いだったわけだ。 しかも10年も戦った挙句、決着がつかず、結局和睦という形で終結している。
10年も何してたのよ。
まぁそれはおいおい話すとして、狭い地域で数十万の軍が長期にわたり戦った結果、794年に遷都して以来、長らく日本の都として繁栄してきた京の多くが焼け野原になった。しかも、応仁の乱が終わった後も、今度は地方で戦いが頻発するようになり、日本は戦国時代と呼ばれる時代に入っていくことになる。
そうそう、戦国時代の始まりと言われているね。
確かに、かつては応仁の乱が戦国時代の始まりとされていたけど、最近は他の出来事を戦国時代の始まりとする説もあるみたいだ。
え!?そうなの?
例えば、応仁の乱の後も、将軍をトップとした室町幕府の秩序は保たれていて、それが崩れた1493年の明応の政変(めいおうのせいへん)により戦国時代に入ったとする説や、応仁の乱より前、関東で続く戦乱のきっかけとなった、1455年の享徳の乱(きょうとくのらん)を戦国時代の始まりとする説もある。
何よそれ。どれかはっきり決めなさいよ。
まぁ歴史には色んな見方があるから。 まぁいずれにしろ、応仁の乱は、日本全国を戦乱の世の中に変えた、重要な出来事には変わりはない。 ちなみに、なぜ「応仁の乱」と呼ぶかというと、戦いの起きた1467年が、当時の元号では応仁元年だったためだ。
そう言われると、分かりやすい名前だとは思うね。
応仁の乱の話に入る前に、室町幕府の組織構成について知らない人は、先にちょっと詳しい歴史解説 室町幕府の組織構成を見ておいてほしい。
なんか面倒くさいわね。
まぁそう言わずに。 どんな立場の人がいた方が、話はよく分かると思う。 それに、これから、たくさんの登場人物が出てくるから、誰が誰だか分からなくなるかもしれない。 そんな時は、この室町幕府の組織構成を基に頭の中を整理してほしい。
しょうがないわね。
とはいえ、時間のない人向けに、室町幕府の組織構成で押さえておいてほしいのは、以下の点だ。
- 近畿地方・中部地方は室町幕府、関東は鎌倉府、奥州(東北地方)は奥州探題、九州は守護大名の大内氏が、それぞれ取りまとめていた。
- 将軍と鎌倉公方はともに足利氏であり、一族ではあるが対立することが多かった。
- 将軍と鎌倉公方を補佐する役職として、それぞれ管領と関東管領の役職があった。 管領は斯波、細川、畠山の3つの家から任命され、関東管領は上杉氏が世襲した。
- 管領の下には、政治を実行する役所して政所、侍所、問注所が置かれた。政所の長官は伊勢氏が世襲、侍所の長官は山名氏、赤松氏、一色氏、京極氏の4つの家から任命された。
- 守護大名の中には、1人や一族で何か国もの守護を兼ねる有力な守護大名がいくつかおり、将軍の決定には、これら守護大名の意見が反映された。
応仁の乱
応仁の乱の背景
いよいよ応仁の乱の話に入ろう。 まず最初に、応仁の乱が起きた原因、聞いたことあるかい?
確か、当時の将軍の足利義政(よしまさ)が、最初は弟を後継者にしようとしていけど、息子が生まれて、奥さんの日野富子(ひのとみこ)が息子を将軍にするため有力な守護大名に働きかけた結果起きたって、歴史で習った気が。
確かに、そう言われていたこともあったが、それは今では誤りとされている。
ええー!?
将軍の後継者争いを第一の理由に挙げる考え方は、「応仁記」という書物に書かれているんだが、それは創作だったと言われている。
じゃあ何が原因なのよ?
そう。まずはその家督争いの話から。
畠山家の争い
まずは、最も大きな争いとなった、畠山家の家督争いから。 前に出てきた通り、畠山家は三管領の1つで、河内国(かわちのくに、今の大阪府)、紀伊国(きいのくに、今の和歌山県)、越中国(えっちゅうのくに、今の富山県)などの守護を務め、一族は能登国(のとのくに、今の石川県)の守護も務める有力な守護大名だ。 室町幕府の第8代将軍の足利義政が将軍となった頃、管領を務めていたのは当時の畠山家当主の畠山持国(もちくに)だった。 彼は、最盛期にはその権勢は無双と言われるほど、強い権力を持っていた。
幕府一の実力者だったんだね。
だが、彼にも悩みはあった。 長く後継者の男子がいなかったんだ。 そこで、彼は弟の畠山持冨(もちとみ)を後継者としていた。 しかしその後、息子の畠山義就(よしなり)が生まれる。
あー、それは息子に持っていかれるわね。
ところがそう簡単にはいかなかった。 生まれた息子の母親は側室で、持国の妻となる前に、他の複数の大名との間に子供がいた。 そういう事情もあり、最初は義就は寺に預けられるという話もあったようだ。 しかし最終的に、持国が後継者を持冨から義就に強引に変えてしまう。
そういう強引なところは、権力者らしいね。
これに対し、持冨自身は特に異議を唱えなかったようだ。 しかし、持冨を推していた家臣たちがこれに反発する。 持冨はその後まもなく亡くなるが、納得できない家臣たちは、その子の弥三郎(やさぶろう)を推して反発を続けた。
推しはそう簡単には変えられないってことね。
さて、この家督争いは、単純に畠山氏の内部だけで終わらず、持国の勢力を警戒する他家も介入してくる。 具体的に言うと、守護大名の細川勝元と山名宗全だ。 細川勝元は三管領の1つである細川家の当主、山名宗全は四職の1つである山名家の当主だ。 彼らはともに、弥三郎を支持していた。
ん? 何だか仲良さそうだけど、この2人って、応仁の乱で戦う東軍・西軍の大将じゃないの?
応仁の乱を知っている我々からすると、日本を2つに割って戦う彼らが連携しているのは意外に感じるかもしれないけど、実は彼らは応仁の乱の直前までは反畠山氏という点で協調路線をとっていた。 当主に支持されない方を支援することで、畠山氏の弱体化を狙ったものと思われる。 一方、将軍の足利義政は、逆に細川・山名を抑えるために、畠山と連携を図っていたと言われており、持国と義就を支持していた。
いい感じにドロドロしてきたわね。
この対立は、最終的に武力行使にまで発展する。 まず動いたのは畠山持国で、弥三郎派の家臣の館を襲撃させた。 この襲撃は成功したが、今度は逆に弥三郎派の家臣が畠山持国の館を襲撃する。 その結果、義就は脱出して京の外へ逃亡、持国も脱出したが結局隠居を余儀なくされる。 ここに至って、将軍義政も仕方なく弥三郎を畠山家の家督と認めることになった。
これで勝負あったのかな?
ところが、この状況はその後逆転する。 逃亡した義就が勢力を盛り返して京に戻り、義政から家督を認められた。 代わりに、今度は弥三郎が逃亡する。 そして、このタイミングで畠山持国が亡くなり、畠山義就が家督につく。
義就もなかなかやるわね。
畠山氏だけでなく、室町時代は、家督争いが多かった。 これには、義政に限らず、歴代の室町幕府の将軍の取ってきた政策が原因の1つと言われている。 前にも言った通り、将軍は有力な守護大名は、将軍家以上の軍事力・経済力を持っていたから、特定の守護大名が強くなりすぎないように、歴代将軍は細心の注意を払っていた。 強くなりすぎた守護大名に対しては、家督争いを誘発したり、煽ったりすることで弱体化させ、力関係の微妙なバランスを取ることで政権を運営してきたんだ。 このように、将軍家が原因で守護大名に家督争いが起きることもしばしばあった。
家督争いを誘発とか。怖い。
ひとまず、今回は、畠山義就が家督についたことで、結果的には将軍義政の希望通りにはなったわけだ。 畠山持国の後継の管領には、細川勝元が就任する。 しかし、このことが、意外なところで大事件を引き起こすことになる。
享徳の乱
さて、話は京を離れて関東に移る。
関東と言えば、組織図で言えば鎌倉府の管轄ね。
その通り。 当時の鎌倉公方は足利成氏(しげうじ)、関東管領は上杉憲忠(のりただ)だった。 関東には、関東管領や室町幕府に従う武士と鎌倉公方に従う武士がいたと言ったけど、足利成氏は、鎌倉公方派の武士を優遇し、上杉憲忠を遠ざけるような態度をとっていた。 当然上杉憲忠としては、それに反発することになり、鎌倉公方と関東管領の溝は深いものになっていた。 そんな中、京の都で、管領が畠山持国から細川勝元へと変わる。 畠山持国は、足利成氏に好意的だったと言われているけれど、新しく管領となった細川勝元は、逆に成氏に対し厳しい態度を取り、関東管領を支持するような姿勢を見せる。 これに焦った足利成氏は、上杉憲忠を自分の館に呼びつけ、なんとその場で殺害してしまう。 さらに、上杉家の家宰(当主の補佐役)も襲撃して殺害する。
うわぁ。
急に思い切ったわね。
これに対し、当主を殺された上杉側も黙っているはずもなく、偶然鎌倉を離れていたために難を逃れた元上杉家家宰の長尾景仲(ながお かげなか)は足利成氏と戦うために兵を集めるとともに、室町幕府に支援を要請する。 こうして、享徳の乱(きょうとくのらん)と呼ばれる、関東での長い戦いが始まる。
長いってどのくらい?
享徳の乱の始まりは1455年、終わるのは1482年だから、27年くらいかな。
ん? 応仁の乱は1467年に開始だからこの後だけど、終わるのって確か10年後くらいだから・・・。
応仁の乱が終わるのは1477年だから、応仁の乱の後も5年くらい続いたことになる。
思ったより長いわね・・・。
しかも、享徳の乱が終わった後も、関東では戦乱が続いていくから、この京徳の乱で、関東は戦国時代に入ったという見方もある。
さっき出てきた話だね。
さて、享徳の乱の知らせが京に伝わると、足利義政は上杉家の支持を決定する。 京にいた上杉憲忠の弟の上杉房顕(ふさあき)を上杉氏の家督として関東管領に任命し、さらに足利成氏討伐軍の総大将とする。 そして、同じ上杉一族である越後国(えちごのくに、今の新潟県)守護の上杉房定(ふささだ)や駿河国(するがのくに、今の静岡県)守護の今川範忠(いまがわ のりただ)などに、上杉氏に加勢するよう命じる。
かなり手際がいいね。 それに、今川ってもしかして・・・。
戦国時代、織田信長(おだ のぶなが)と桶狭間(おけはざま)の合戦で戦ったので有名な、今川義元(いまがわ よしもと)の先祖だね。
今川氏は足利家の分家のそのまた分家で将軍家とも割と近く、代々守護をしていた駿河国は、関東への入り口にあたることから、越後の上杉氏とともに関東のお目付け役として重要な地位を担っていた。
さて、関東の方に戻って、京から上杉房顕が関東に到着する前に、兵を集めた長尾景仲が足利成氏と戦いを始めている。 結果は、足利成氏の勝利で、敗れた長尾景仲は逃亡した。 成氏は、この勝利に乗じて、北関東の上杉方の武士の討伐を始める。 しかし、成氏が北関東で戦っている間に、幕府の命を受けた今川範忠が、成氏の本拠地である鎌倉を占領する。
あらー。やっちゃったわね。
鎌倉に戻れなくなった成氏は、下総国(しもうさのくに、今の千葉県など)の古河(こが)に本拠地を移して、以後は古河公方(こがくぼう)と呼ばれるようになる。 幕府討伐軍の総大将である上杉房顕も関東に到着し、関東管領・幕府側と鎌倉公方側の戦いが本格的に行われるが、間もなく膠着状態に陥る。 そこで、将軍義政は、次の手を打つことにする。
その2に続く。