ちょっと詳しい歴史解説 応仁の乱 その2
応仁の乱の背景 つづき
新しい鎌倉公方
膠着状態に陥った関東の戦いを動かすために、将軍義政は、次の手を打つ。 これまでより広い範囲、つまり奥州や中部地方の武士たちにも足利成氏討伐の動員をかけることにしたんだ。 それとともに、それらの多くの武士たちを束ねるにふさわしい、新しい総大将兼、次の鎌倉公方を自分の身内から派遣することにした。 そして白羽の矢が立ったのが、足利義政の異母兄で、幼いころから出家して寺の預けられていた人物だ。 1457年、彼は還俗(げんぞく)して足利政知(まさとも)と名乗り、新たな鎌倉公方に任命される。 その補佐役には、渋川義鏡(しぶかわ よしかね)がつけられた。
還俗っていうのは、一度出家した人が戻ってくることだね。
渋川ってどこかで聞いたことあるわね。
ああ、九州探題をやってた家だ。
そう、渋川氏は九州探題を務めている一族であり、足利家の分家の1つだ。 九州探題としては有名無実となっていたものの、家格としては鎌倉公方の補佐役として申し分ない家だった。 ただし、九州探題の職は、渋川義鏡の従兄弟がついていた。
仕事がなくて暇だったってことかしら。
いや、そういうことは無いとは思うんだけど・・・。 まぁとにかく、足利政知と渋川義鏡が、新たに関東に派遣される。 ところが、鎌倉を占領した今川範忠は帰国しており、鎌倉は古河公方派が盛り返して危険な場所となっていた。 そのため、足利政知は鎌倉に滞在することができず、その手前の伊豆国(いずのくに、今の静岡県)の堀越(ほりごえ)を拠点とした。そのため、これ以降、足利政知は堀越公方(ほりこしくぼう)と呼ばれる。
地名が堀越(ほりごえ)なのに、堀越公方(ほりこしくぼう)?
確かに、堀越公方(ほりごえくぼう)と呼ぶこともあるけど、慣用的に堀越公方(ほりこしくぼう)と呼ぶことが多いね。 さて、足利政知と渋川義鏡が現地入りしたわけだけど、彼らはその立場から担ぎ出されただけで、別に大きな領地を持っていたわけではない。 当然、自分の兵を多く持っていたわけではなかった。 そもそも、彼らを担ぎ出した理由は、奥州や中部地方など、より広い地域から武士を動員することが前提だった。
そういえばそうだったわね。
特に軍事力という点で大きな期待されていたのが、三管領の1つである斯波氏だ。 斯波氏は、越前国(えちぜんのくに、今の福井県)、尾張国(おわりのくに、今の愛知県)、遠江国(とおとうみのくに、今の静岡県)などの守護を兼ねる有力な守護大名で、当時の家督は斯波義敏(よしとし)だった。
三管領は前に出てきたね。
当然、斯波義敏にも、室町幕府から動員令が出る。 ところが、義敏は、関東に出陣するどころか、越前国において、守護代の甲斐常治(かい じょうち)と戦いを始めてしまう。
は?!何やってんのよ!
実は、斯波義敏は、その父の代から、守護代の甲斐常治との仲が悪かった。 そして、このタイミングで、ついに戦いにまで発展してしまったんだ。 関東への出陣命令を無視して自分の家臣と戦いをしている義敏に対し、将軍義政は当然、激怒する。 家督を義敏から奪い、義敏の子でわずか3歳の松王丸に与える。 こんなことがあったので、大きな軍事力を期待していた斯波氏は、関東への出陣どころではなくなってしまった。
なんというか・・・。ぐだぐだね。
斯波氏の当主交代
斯波氏の争いは一旦収まったものの、当主は3歳の子供だ。 このままでは、当てにしていた斯波氏の軍事力が使えなくなってしまう。 そこで、将軍義政は、斯波氏の家督を変えることを考える。
変えたばかりなのに?誰に変えるんだろう?
要は、関東出陣のモチベーションの高い人物が斯波氏の家督になればいいわけだ。 誰にすればいいと思う?
もう自分の言いなりになるように、鎌倉公方みたく自分の身内から選べばいいんじゃないの?
そんな無茶苦茶な・・・。
いや、実はいい線いっている。
え?!
義政が選んだのは、堀越公方の補佐役である渋川義鏡の息子だ。
はぁ?! 意外な人が出てきたわね。斯波氏と関係あるの?
一応、同じ足利家一門だったり、彼の曾祖母が斯波氏出身だったりするけど・・・。 あんまり関係ないね。
自分で言っといてなんだけど、大丈夫なの?それ。 義政って奴、関東の戦いに勝つことしか考えてないんじゃないの?
否定はできない。
否定できないんだ・・・。
ただ、確かに、関東の戦いに斯波氏を動員するなら、うってつけの人材と言える。 総大将の補佐役の息子であれば、関東出陣のモチベーションも高いし、出陣した後もうまく連携してくれることが期待できる。
うーん。そう言われるとそんな気もしてくるけど・・・。 大丈夫なのかな。
とにかく、1461年、将軍義政は、渋川義鏡の息子を、斯波義廉(よしかど)と名乗らせ、斯波氏の家督を継がせる。 そして、義政の期待通り、斯波義廉は関東へ出陣する。
渋川義鏡の失脚
ところが、堀越公方足利政知の補佐役であり、斯波義廉の実の父である、渋川義鏡が失脚してしまう。 1462年のことと言われている。
えー。 息子が斯波氏の家督継いだ翌年じゃない。
当時、堀越公方と関東の武士の間で対立が起こっていたようで、その裏で渋川義鏡が糸を引いていたらしい。 渋川義鏡は失脚させられ、歴史の表舞台から消えてしまう。 当然、渋川義鏡の子である斯波義廉の立場は悪くなる。
なんというか、うまくいかないもんだね。
これで、せっかく期待した渋川義鏡を通しての斯波義廉と堀越公方の連携の構想は消えてしまった。 また、この頃になると、斯波義敏と激しく争った甲斐常治も既に亡くなって、子の甲斐敏光(としみつ)が継いでおり、斯波氏の当主が斯波義廉でなければならない必然性がなくなってきてしまったことになる。
なんか嫌な予感がするわね・・・。
畠山氏の勢力関係の変化
さて、また話を京に戻そう。 畠山氏は、義就と弥三郎が後継者を争った結果、畠山義就が家督についていた。 家督についた義就は、大和国(やまとのくに、今の奈良県)で弥三郎の味方についた豪族たちに対し討伐をしていた。この際、勝手に将軍義政の意向であると言い張ったため、将軍義政の怒りを買うことになる。
何やってんの?この問題児。
こういう事情や、弥三郎を支持していた管領の細川勝元や山名宗全の働きかけもあって、将軍義政は、弥三郎を赦免する。 しかし、弥三郎は、せっかく赦免されたにも関わらず、間もなく亡くなってしまう。
うわ、残念・・・。
そこで、弥三郎派の家臣は、その弟の畠山政長(まさなが)を擁立して、なお義就に対抗を続けた。
しぶといわね。
そして1460年、ついに、室町幕府から畠山義就に対し、畠山政長へ家督を譲るよう命じられた。 畠山義就は反発して、河内国の嶽山城(だけやまじょう)に籠もり、やってきた畠山政長軍と2年以上戦ったが、ついに嶽山城は陥落し、逃亡した。 こうして、畠山政長が畠山家の当主となった。
畠山氏・斯波氏の対立と守護大名の派閥形成
さて、ここまでで、敗者となった畠山義就と斯波義敏だが、1463年、ともに赦免されている。
え?どうしてまた?
この年、将軍義政の生母が亡くなったことを受けて、恩赦としての赦免だ。 歴史上、こんな風に慶弔を機に赦免が行われることは、よくあることだった。 これは、あくまで畠山義就と斯波義敏が許されたというだけで、彼らがすぐに復帰するという話ではなかった。 しかし、特に斯波義廉は、これに危機感を覚えていたと思われる。
まぁ、最近株が下がってるものね。
さらに斯波義廉にとってまずいことに、彼は奥州探題との連絡に失敗したと言われている。
奥州探題との連絡?
思い出してほしいんだけど、足利政知の関東派遣の前提として、奥州および中部地方の武士の動員というのがあった。斯波義廉が家督相続して関東に出陣したことで、中部地方の動員はある程度できたけれど、奥州の動員は進んでいなかった。
そういえばそんな話してたわね。
前に言った通り、奥州は奥州探題の大崎氏が統括していた。 大崎氏は斯波氏の分家だったから、幕府側の窓口は斯波氏となっていた。 斯波義敏が家督だった頃、彼が大崎氏と連絡を取っていた記録は残っている。 ただその頃、大崎氏含め奥州の武士たちが関東への出兵に消極的だったことと、何より義敏自身が甲斐常治と戦いを始めたことで、大崎氏への連絡どころではなくなっていたため、奥州との交渉は進んでいなかった。 ところが、斯波義廉の場合、大崎氏と連絡を取った記録が残っていないらしい。 想像するに、他家から養子としてきた義廉は当然大崎氏との連絡パイプは持っておらず、守護代として長年斯波家中を取り仕切ってきた甲斐常治も、斯波義廉が家督となる直前に亡くなっており、大崎氏との連絡ルートを確立できなかったのだと考えられる。 このため、将軍義政は、やっぱり大崎氏との連絡ルートを持っている斯波義敏が当主の方がいいんじゃないかと思い始める。
ちょっ。 自分の都合で養子を引っ張り込んでおいて、やっぱやめた、とか。 義政って人、やっぱり関東で勝つことしか考えてないでしょ。
否定はできない・・・。 危機感をいだいた斯波義廉は、母親が山名氏だった縁から、四職にして有力守護大名である山名宗全に接近していく。 山名宗全も、身内の子である斯波義廉を支持し、彼らは親密となっていく。 一方、赦免はされたものの、復帰ができていなかった畠山義就も、山名宗全と結びついていくことになる。 元々畠山義就と山名氏はある程度結びつきがあったみたいだけど、斯波義敏を警戒する斯波義廉が、伝手を辿って家督から外れていた畠山義就を味方に引き入れたと言われている。 ここに、山名宗全・畠山義就・斯波義廉という、応仁の乱の西軍の原型となる派閥ができたことになる。
やっぱり義政が無茶なことするから・・・。
ところで、山名宗全と協調路線をとってきた細川勝元だったんだけど、彼は畠山氏に関しては畠山政長を支持しており、斯波氏については斯波義敏を支持していた。 ここに、細川勝元と山名宗全は、対立する理由ができたことになる。 実は、これより前にも、細川勝元と山名宗全の間で、足並みが乱れていると思われる出来事もあったんだけど、今回のことで対立が生まれてきたと言われている。 これで、細川勝元・畠山政長・斯波義敏と、山名宗全・畠山義就・斯波義廉という応仁の乱の東軍と西軍の原型が出来上がったことになる。 1465年~1466年頃のことだ。
応仁の乱の開始が1467年だから、いよいよ始まりそうだね。
さらに、山名宗全は、西の有力大名、大内教弘(のりひろ)・政弘(まさひろ)親子を自身の派閥に引き込むことに成功し、さらに力をつける。
大内って、前に出てきたわね。 確か、九州探題に代わって九州を実質的に統括していたっていう?
そう。当時、大内氏は日本でも有数の非常に有力な守護大名だった。 その上、当主の大内教弘は、当時細川勝元と対立しており、山名宗全としては、味方にしない理由がない。 そして、大内氏を味方につけたことが、山名宗全にとって、後々応仁の乱で大きな意味を持ってくる。
その3に続く。
その1はこちら。