ちょっと詳しい歴史解説 応仁の乱 その5
和睦の模索
和睦交渉の開始
これでようやく終わりが見えてきたのかな。
しかし、このとき東軍の赤松政則が強硬に反対し、和睦は成立しなかった。
えー。
赤松政則は、元々播磨国を山名氏から取り返すために東軍に参加していた。 実はこの時点で、実力で播磨国を押さえていた。 それだけでなく、備前国(びぜんのくに、今の岡山県・兵庫県など)と美作国(みまさかのくに、今の岡山県)も手中に入れていた。 これらの国は、かつて赤松氏が播磨国と合わせて守護職を持っていた国だった。 つまり、赤松政則としては、一時的に旧領回復という悲願を果たすことに成功したわけだ。 ただ、これらの国の守護は、正式には山名氏だから、ここで和睦したら、3か国を山名氏に奪われると考えたんだろう。
そう言われると、確かに反対するのは当然ね。
両軍の大将の死
1473年、3月に西軍の大将山名宗全が、5月に東軍の大将細川勝元が、相次いで死去する。 山名氏の家督はすでに、前年の和睦交渉の失敗後、山名政豊(まさとよ)に譲られていた。 細川氏の家督は、勝元の息子の細川政元(まさもと)が継いだ。
これにより、東軍・西軍両方の大将が世代交代したことになる。 この頃になると、細川・山名に限らず、応仁の乱開始時の当事者が死去し、世代が変わった家も出てくる。
応仁の乱が始まって、はや6年だからね。 開始時点で小学6年だった人も、もう高校を卒業する年だね。
この頃西軍では、とある人物の発言力が高まってきたと言われている。 それがこの斎藤妙椿だ。
斎藤妙椿? 誰だっけ?
前に人物紹介した、西軍の土岐成頼の家臣で、美濃国で事実上家中を取り仕切っていた人物だよ。
そう言えばそんな話を聞いた気がするわ。
彼は美濃国に在国して、すでに国内の東軍勢力を駆逐しており、この頃他の国へも攻勢に出ている。 その結果、その影響力は、美濃を中心に6か国にも及んだとも言われている。
西軍って、定期的にインパクトを与える人が出てくるのね。
さて、この年の12月、将軍足利義政は、将軍職を息子の足利義尚に譲って隠居する。
そっか、足利義視は西軍に行っちゃったから・・・。
ただ、これは形だけだったようで、最終判断は義政が行っていたから、まだ義政が実権を握っていた。
細川と山名の和睦
1474年、当初の東西両軍の大将はすでにこの世になく、世代が変わったこともあり、4月に東軍の細川政元と西軍の山名政豊の間で、ついに和睦が成立する。
やっと和睦か。
長かったわね。
しかし、東軍では、以前と同様に赤松政則が反対、西軍でも、畠山義就や斎藤妙椿らが反対した。 そのため、細川氏と山名氏の単独講和となった。
大将の間で和睦が成立したのに、まだ終わらないのか。
これ以降、山名政豊は、足利義政配下、つまり東軍に参加することになる。 実際、山名政豊は西軍を攻撃したりしている。
西軍の大将が東軍になってしまったのね。
戦乱の収束
1475年2月には、西軍の斯波義廉の家臣の甲斐敏光が、足利義政から遠江国の守護代に任命され、東軍に寝返り遠江国へ赴任した。 朝倉孝景、甲斐敏光と、有力な配下を失った西軍の斯波義廉は、残った領国である尾張国へ逃亡し、それ以後行方は分からなくなる。
はるばる養子になって斯波氏に来たのに、この結末はちょっとかわいそうだね。
これにより、西軍は、大将の山名氏に次いで斯波氏も抜けたことになる。 1476年に入ると、京ではほとんど戦いが見られなくなる。 そして、西軍の足利義視・大内政弘の和睦交渉が始まる。 まず、この年の12月、足利義視と足利義政の和睦が成立する。
西軍の将軍も抜けたのね。 西軍はあと誰が残ってたっけ?
長く和睦に反対してきた西軍の畠山義就は、1477年9月、この和平の流れに反発するかのように、1人畠山氏の領国である河内国へ行き、畠山政長軍を追い出して河内国を実力で手に入れる。
まだ血の気の多い奴がいたわね・・・。
1477年10月、西軍の斎藤妙椿が軍勢を連れて上洛する。 しかし、和平の流れは止まらず、10月に大内政弘は4か国の守護職を安堵されて和睦。 1477年11月、西軍の足利義視は、土岐成頼・斎藤妙椿とともに美濃国へ下り、大内政弘も帰国し、西軍の主な軍勢が京都からいなくなったことにより、応仁の乱は終結した。
今度こそ、本当に終わったか。
しかし、なんかみんな個人個人バラバラに去っていったイメージが強いわね。
応仁の乱は、西軍が解体されたという意味では東軍の勝利とも言えるけど、だからと言って別に西軍の諸将が罰を受けたわけではなく、あくまで和睦で終わったことになる。 この和睦というのも、西軍として一斉に和睦したわけではなく、和睦したい人だけが徐々に和睦していく一方で、反対する人はなおも戦い続け、畠山義就のように、最後まで和睦しなかった人もいた。 そもそも、西軍は山名宗全や足利義視が大将となっていたわけだけど、諸将の多くは彼らに味方したくて西軍についたというよりは、東軍にいる自分の敵を倒すために西軍についたケースが多かったから、この戦いで譲れないものというのが個人個人でバラバラだった。 だから、その譲れないものに折り合いをつけられた者から順に抜けていき、そうでない者は、なおも戦い続けていた。 確かに、この点は応仁の乱独特の特徴だったのではないかと思う。
応仁の乱のその後
さて、応仁の乱は終わったけれど、応仁の乱によって何が変わったのか。 それに、途中まで出てきて終わっていない話もあるので、少しだけその後の話をしよう。
守護の在国化
まず、応仁の乱で最も変わった点が、守護大名が京を離れて在国化したことだ。
そう言えば、最後、西軍はみんな京を離れてたね。
西軍に限らず、東軍の守護大名の多くも自分の領国に帰っている。 この多くは、領国を安定させるためだと言われている。
確かに、途中から戦いの舞台が地方に移ったり、寝返り工作があったりしたものね。
元々、応仁の乱以前にも、各地の武士たちの家には、室町時代通して生まれた家中の紛争があった。 応仁の乱が起きたことで、この紛争が東軍・西軍の戦いに持ち込まれたわけだ。 ところが、応仁の乱は、さっき見た通り、和睦という形で終了し、決着がつかなかった。 当然、各家の紛争の多くにも決着がつかなかったことになる。
なるほど。 そうなると、京での戦いが終わった後は、それぞれの領国で紛争が続いたわけだね。
加えて、守護大名にとって、京に滞在することのメリットを、デメリットが上回ってしまったこともある。 そもそも守護大名が京に滞在するのは、将軍および幕府とのつながりを維持するためだった。 これにより、領国経営をスムーズにしたり、褒美として新たな領地をもらったりすることが可能になるのが、メリットだった。 ところが、応仁の乱で各地が不安定化すると、京と領国のつながりが途絶えがちとなってしまう。
そっか。補給線の話ね。
そう。 京に滞在するには、お金などが必要となる。 それらは普段であれば自分の領地から徴収して京へ運ぶんだけど、京周辺や領国との連絡ルートが不安定になると、それらが届かなくなってしまう。 つまり、京にいると新しい生活費が届かず、干上がってしまうわけだ。 これが、京に滞在することのデメリットとして際立ってきて、将軍および幕府とつながるより、まず自分の生活費を稼ぐ道を選ぶ大名が増えてくるわけだね。 ちなみに、この京にいる領地からの生活費が届かないっていうのは、武家だけでなく、公家も事情は同じで、京の公家でも地方の自分の領地へ移り住む人が出てきたりする。 まぁ、公家の場合は、単に京の戦乱を避けるという面もあったみたいだけど。
そりゃあ、いつもらえるか分からない褒美より、今の生活費が優先よね。
さらにもう1つ、守護大名にとって死活問題となる事情もあった。
まだ何かあるの?
応仁の乱を通して、領国において、守護代クラスの家臣が主人である守護を上回る力を持つケースが多くなってくるんだ。 いわゆる、戦国時代の下剋上の気配というのが各地で高まってくる。
ん?どういうこと? ちょっとよく分からないんだけど。
地方の武士の気持ちになって考えてほしいんだけど、応仁の乱が始まって約10年間、京に行ったまま一度も会っていない守護と、同じだけ長い時間、すぐそばで共に敵と戦い、困ったときには自分を助けてくれた守護代、どっちについていきたいと思う?
そりゃあ、常に自分のそばにいてくれた人の方が・・・、ってそういうことね。
まぁ歴史学的には、応仁の乱で国内の敵を排除する過程で、守護代があちこちの土地を自分の支配下に入れていったことで、軍事力・経済力という意味で守護を凌駕していく、という説明がされることが多い。 でも、こういう、領国の家臣の支持を多く集めるようになる、っていうのも大きな影響力になるのだと思う。
確かに、いくら力があっても、家中の多くの家臣を全部敵に回してたら、やっていけないもんね。
10年もの間、守護無しでずっとやってきたんだから、もう守護とかいらなくね?って考えるわよね。
そんなわけで、守護としても、京を離れ領国に滞在せざるを得なくなる。 しかしそれでも、戦国時代に入ると、かつて在京していた守護大名の多くは下剋上にあっている。
将軍の傀儡化
守護大名がほぼ不在となった京では、将軍の地位が相対的に低下していく。 前にも言った通り、足利将軍家というのは、自身の領地はあまり持たず、守護大名を動かす権限を持つ、という点で守護大名に対し優位を保っていた。 そのため、特定の守護大名が強くなり過ぎないように気を配ってもいた。 しかし、京に守護大名がほぼいなくなったことで、周辺の守護大名同士の争いに介入できなくなっていく。 もちろん、争いをやめるよう命令することはあったが、無視されたらそれまでだった。
京に残った守護大名はいなかったのかな?
一応、一部在京していた守護大名はいた。 その中でも最大勢力だったのが、細川政元だった。 というか、当時京周辺で細川氏に敵う勢力はいなかったと言っていい。
あら、そうなるとお得意の、特定の守護大名が強くなり過ぎないように、どころじゃないわね。
そして、1493年、管領だった細川政元が、第10代将軍足利義稙(よしたね)を追放し、足利義澄(よしずみ)を将軍とする事件が起こる。 これを明応の政変(めいおうのせいへん)といって、これ以降、将軍というのは、京周辺の実力者が自分の傀儡として担ぐものとなっていく。 見方によっては、これにより室町幕府の秩序が失われたということもできるため、明応の政変を以て戦国時代の始まりとする説もある。
ついに幕府でも下剋上が起こったんだね。
将軍は、実力者の誕生とともに担がれ、実力者の没落とともに没落し、新たな実力者が別の者を将軍に立てる、という流れが続いていくことになる。
京都にいたのは細川氏だけじゃなかったの? 誰と争ってたの?
実は、細川政元の死後、斯波家や畠山家に2世代ほど遅れて細川家でも家督争いが起こる。つまり、細川氏同士で争っていたんだ。 さらに、この争いを通して、細川氏自身も没落していく。 そうすると、細川氏の家督自身も有力家臣の傀儡とされ、将軍を担ぐ「実力者」は、細川家臣の三好長慶(みよし ながよし)、さらには三好家家臣の松永久秀(まつなが ひさひで)など、時代とともに変わっていった。 そしてこれは、1568年、織田信長(おだ のぶなが)が足利義昭(よしあき)の後ろ盾となり「実力者」として上洛するまで続くことになる。
畠山氏の争い
次は、畠山氏の争いのその後だ。
そういえば、和睦しないで出ていった奴がいたわね。
前に言った通り、西軍だった畠山義就は、和睦せずに実力で河内国を奪い取った。 さらに隣の大和国でも畠山義就派が勝利し、河内・大和は事実上畠山義就の支配下となった。 ただ、大和国はともかく、河内国の正式な守護と畠山家の家督は、依然として東軍だった畠山政長だったから、当然畠山政長も黙っておらず、義就と戦いを続ける。 この戦いは主に山城国が戦場となり、あまりに長く続いたため、山城国の地元の武士たちは結束して、どちらの畠山軍も出ていくように要求した。 いわゆる、山城国一揆(やましろのくにいっき)だ。 これにより、畠山義就、畠山政長の双方も山城国を出ていったが、その後も他の国で延々と戦い続けた。この戦いは、それぞれの世代が交代しても続いていくことになる。
これは重症だね・・・。
斯波氏の争い
次は、斯波氏のその後だ。
っていっても、一方の当事者の義廉は行方不明になっちゃったわよ。 義敏の勝利ってことで家督争いは終わったんじゃないの?
確かに斯波氏の家督という意味では、義敏の勝利により、家督争いは終わる。 ただし、その後、斯波氏自体が衰退していくことになる。
そう言えば、東軍への寝返りの見返りとして、越前国は朝倉孝景が正式な守護になってたね。
そう。 応仁の乱の後、結局斯波義敏は越前国を取り戻せなかった。 義敏の息子の斯波義寛(よしひろ)は、実力で取り戻そうと朝倉孝景と戦うけれど、敗北して越前国の奪回は断念する。 その後、義敏は斯波家のことは息子の義寛に任せ、自身は京で文化人的な活動をして一生を終える。
そういう老後もなかなかよさそうじゃない。
斯波氏の後を継いだ義寛は、残った領国である尾張国と遠江国に集中するために、尾張国へ移る。 しかし、遠江国の守護代には、引き続き甲斐氏を任命していたが、遠江国へは隣の駿河国の今川氏が侵攻し、戦いの末奪われてしまう。 残った尾張国では、引き続き守護の地位を守るものの、時代が進むにつれ、家臣の織田(おだ)氏が勢いを増してくる。 そして、斯波義銀(よしかね)が当主の時、守護代の家臣の家出身の織田信長によって追放され、尾張国守護大名としての斯波氏は終わりを告げる。
こういう話を聞くと、歴史って全部つながってるんだって感じるわね。
他の諸将のその後
あとは、その後が気になりそうな人物のその後について。 まずは、東軍の赤松政則。
そういえば、実力で旧領回復を達成してたね。 和睦に反対してたけど、どうなったのかな。
実力で播磨・備前・美作を回復した赤松政則は、代わりに加賀半国を放棄したらしい。 しかし、応仁の乱後、守護に任じられていた山名政豊と戦いになる。
まぁ、そうなるわよね。
戦いの結果、山名政豊は敗北して3国の奪回を断念し、赤松政則は旧領を回復する。 しかし、赤松氏は昔の威光を完全に回復したわけではなかった。 まず、山名政豊との戦いの少し前あたりから、赤松家でも内紛が起き始めている。 赤松氏の分家である有馬(ありま)氏が反乱を起こしたり、守護代の浦上(うらかみ)氏や分家筋の別所(べっしょ)氏、小寺(こでら)氏などが家中を動かすようになっていく。 そして、赤松政則の死後、守護代の浦上氏が次の当主を暗殺して別の人物に変えるなど、赤松氏は家臣の傀儡となっていってしまう。
ここでも下剋上か。
次は、若狭国や三河国を取り戻そうとした西軍の一色義直。 彼は応仁の乱開始時、丹後国と伊勢国半国の守護だったが、東軍の将軍義政により守護職を剥奪されていた。 特に丹後国は、戦いの中で、逆に武田信賢に奪われてしまっていた。 細川政元と山名政豊の和睦が成立すると、一色義直は東軍に帰順するとともに引退し、家督を息子の一色義春(よしはる)に譲る。 足利義政は、改めて義春を丹後国守護に任命し、武田氏に丹後国返還を命じるが、無視される。 しかしその後、丹後の一色勢は実力で丹後国を奪還する。 ただ、若狭国については、ついに武田氏から取り返すことはできなかった。 また、三河国については、応仁の乱の戦いでは一色氏が優勢だったものの、相手が細川氏だったためか、応仁の乱終結後、奪還を断念して兵を引いている。
結局、旧領回復はできなかったのね。
享徳の乱のその後
忘れてるかもしれないけど、応仁の乱が終わった後も、関東では享徳の乱がまだ続いていた。
ああ、すっかり忘れてたわ。
前に出てきた通り、1471年には、足利成氏の本拠地だった古河城が陥落するほど、幕府方が優勢となっていた。
このことが、応仁の乱の和睦にもつながったんだよね。
しかし、享徳の乱はそのまますぐには終結しなかった。 この少し前、関東の山内・扇谷上杉氏やその家臣の長尾氏にも世代交代が起こっているんだけど、その相続に不満を持った長尾景春(かげはる)が、1476年に反乱を起こしたことで、幕府軍で内紛が起こる。
えー。またここでも内紛なの?!
そして、これを好機と見た足利成氏も反撃に出て、幕府軍は再び窮地に陥る。 困った幕府軍は、足利成氏との和睦を考え始め、1478年、室町幕府の許可を得て、山内・扇谷上杉氏と足利成氏の和睦が成立する。 その後、和睦に反対して抵抗を続ける一部の成氏派の武士たちを討伐し、1482年、足利義政と足利成氏の和睦が成立し、享徳の乱は終わりを迎えた。
ここまで長かったね・・・。
この和睦により、古河公方の足利成氏が引き続き関東を統治する代わりに、堀越のある伊豆国の支配権は堀越公方の足利政知のものとなった。
まぁ何とかまとまったのね。
ただ、早くも次の火種がくすぶっていた。 この和睦は、山内上杉氏と越後守護の上杉氏が主導したものと言われており、扇谷上杉氏には不満の残るものだったらしい。 その後、山内上杉氏と扇谷上杉氏の仲は険悪となり、1487年、ついに長享の乱(ちょうきょうのらん)と呼ばれる長い戦いが再び始まる。 関東では、この後も戦乱が絶えない時代が続いていく。
エピローグ
今回は、応仁の乱について見てきました。
応仁の乱の原因が有力守護大名同士の争いだってことは分かったけど、各自が勝手な立場で戦いに参加して、混沌としてたね。
しかも、結局斯波氏以外は決着がつかなかったわね。 っていうか、斯波氏については足利義政の失策じゃないの。
確かにそうだけど、守護大名への介入は、室町幕府通して代々の将軍がやってきたことだから、義政ばかりを責めるわけにはいかない。 結局、幕府が大きな力を持たない状態で、その家臣たる守護大名が大きな力を持つ可能性のある仕組みを取ってしまったことが、こういう事態を招いたと言える。
そうすると、ある意味、応仁の乱は起こるべくして起こったってことか。
ちなみに、戦国時代の後に開かれる江戸幕府(えどばくふ)では、幕府の直轄領が、他の大名を圧倒するくらいの規模だった。 つまり、純粋に軍事力・経済力だけなら、いくつかの大名が結託した程度では、幕府単体にすら敵わないような状況が作られていたんだ。 実際、幕府に従う他の大名もこれに加わるわけだから、幕府の力は絶対的で、江戸時代は他に比べるとかなり安定した時代だったと言える。
きちんと歴史から学んでいるのね。
分かりにくいと言われる応仁の乱だけど、その理解にこの解説が少しでも役に立てば嬉しいです。
その1はこちら。