グルコースのブログ

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ちょっと詳しい歴史解説 応仁の乱 その4

応仁の乱の始まり つづき

京での戦い

さて、メンバー紹介も終わったところで、話を戻そう。 両軍が京に軍勢を終結させたところまでだった。 いよいよここから京での本格的な戦いが始まる。

いよいよかぁ。

まずは、東軍の武田信賢たちが西軍の一色義直の館に襲い掛かり、合戦が始まる。

お、さっきの宿命の対決ね。

ただ、この時は、一色義直は事前に館を脱出して山名宗全の陣に逃げ込んだ。 館は、火を放たれ焼き払われた。

ずいぶんあっさりやられちゃったわね。

まぁ奇襲だったようだから、仕方ない。 これに対し、西軍は、畠山義就斯波義廉の軍を動かし、東軍の京極持清赤松政則の軍と戦って勝利している。

また、同じ日、山名宗全邸の南側、東軍の細川勝久(かつひさ)の館のある一条大宮で激しい戦いがあった。 東軍の細川勝久の館に対し、西軍の斯波義廉配下の朝倉孝景などの軍が攻めかかって細川軍と戦い、さらに援軍に来た東軍の京極持清軍を含めて返り討ちにした。 これに対し、東軍の赤松政則が攻めかかって斯波軍を引き上げさせ、細川勝久はこの隙に東軍の細川成之(しげゆき)の館に逃亡した。 西軍は細川勝久邸を焼き払い、続いて細川成之の館に攻めかかったが、決着がつかないまま両軍兵を引いた。 この戦いでついた火は付近に燃え広がり、かなりの被害が出たらしい。

一進一退の攻防だね。

でもどうして火をつけるのかしら。

当時の京での戦いは、いわゆる陣取り合戦だったんだ。 東軍・西軍の守護大名が京都に持っていた館や、軍を配置できるスペースのある神社や寺に陣地を張り、互いに相手の陣地を奪うという戦いをしていた。 相手の陣地を奪うために重要なのが、相手の籠る建物の防御力を奪うこと。 そしてそれを最も簡単にできるのが、建物に火をつけて焼き払うということだったというわけ。 ただ、そう都合よく1つの区画だけ焼くことはできず、風の向きなどで周辺に燃え広がることが多かった。 こんな戦いを両軍が繰り返していたから、京の都はあちこち焼け野原になってしまったんだ。

応仁の乱で京が焼け野原になったっていうのは、そういうことだったのか。

さて、6月に入ると、細川勝元が将軍の足利義政を東軍に取り込むことに成功する。 将軍義政は、5月の戦いが始まった時点では、当初と同様、この戦いを守護大名同士の私闘とみなし、細川勝元山名宗全の双方に停戦を命じていた。 しかし、6月に入ると、細川勝元の要請に応じて、山名宗全討伐の命令書を出し、足利義視を討伐の総大将に任命している。 これにより、細川勝元の東軍は、正式に室町幕府軍となった。

勝元はうまいことやったわね。

これはもう勝負ありかな。

実際、この事実は西軍を大きく揺るがし、降参を申し込む者も出てきた。 管領で西軍の中心人物の1人である斯波義廉でさえ、降参しようとしたと言われている。 しかし、将軍義政は、なおも東軍を戦おうとしていた家臣の朝倉孝景の首を持ってこないと降参を許さないとして、斯波義廉は降参を断念したらしい。

なんで義政はそんなことしたのかしら。

その辺りの理由はよく分かっていないけど、東軍全体としての意見が反映されたものだと考えられている。 これにより、一時西軍に生まれた降参の雰囲気は消え、さらに追加で領国から兵を呼び寄せる。 そんな中、西軍でまだ戦いに参加していなかった、あの大物が参戦する。

激しくなる戦い

大内政弘の上洛と足利義視の出奔

西軍でも大きな軍事力を持つ大大名、大内政弘だ。

ついに来たわね。

8月、大内政弘は、7か国とも8か国とも言われる軍勢を率いて、上洛する。 その人数は数万とも言われる大軍勢だった。 大内政弘の上洛により、西軍は勢いを取り戻し、逆に優勢となる。 そんな中、幕府軍における山名宗全討伐の総大将だった足利義視が、突然行方をくらます。

え?!どうして?!

理由は諸説あってよく分かっていない。 細川勝元の策略で、将軍義政が山名宗全のもとへ行きそうだったため、義政と義視の両方が同時に西軍へ行くのを防ぐため、彼らを別々にしたという説や、室町御所内には、義政も含め西軍寄りの人物が多く、山名宗全討伐の総大将だった義視が孤立したためという説などがある。 いずれにしろ、足利義視は京を脱出して伊勢国へ行き、しばらくその地に滞在する。 大内政弘の軍が加わった西軍は、幕府軍としての総大将が不在となった東軍に対し、攻勢に出る。

急に東軍劣勢な雰囲気になったわね。

10月、室町御所近くの相国寺(しょうこくじ)に陣取る東軍の武田信賢の軍に対し、西軍が一気に攻撃を加える。 武田信賢軍は敗走し、相国寺には火が放たれた。 この戦いで、近くにあった室町御所でも戦いが起き、半分焼失している。 焼け跡となった相国寺は、一時東軍が取り返したが、最終的には西軍が占領した。 この一連の戦いは、相国寺の合戦と言われ、応仁の乱で最も激しい戦いと言われている。

将軍のいる室町御所も焼けたっていうのは、相当激しかったんだね。

そして、その戦いを西軍が制したのね。 大内政弘すごいわね。

この戦いで相当大きな被害が出たようで、そのせいか、この戦い以降、京での大きな戦いは少なくなり、代わりに京の周辺で戦いが中心となっていく。

戦いの地方への飛び火

応仁の乱は2年目の1468年に入る。 この年の前半は、まだ京での戦いが断続的に続いていたが、後半に入ると、戦いの舞台は京周辺や地方へ移っていく。 まず、8月から10月にかけて、京周辺の山科や嵯峨、鳥羽などで戦いが起こる。 また、10月には、東軍の斯波義敏が西軍の斯波義廉の領国である越前に侵攻し、優勢に立つ。 これに対し、斯波義廉配下の朝倉孝景が越前へ軍を引き連れて帰国している。 これ以降、他にも、地方の国で戦いが起こるようになってくる。

どうして戦いの場所が変わっていったのかしら。

戦いの場所が変わっていったのには、ある狙いがあってのことだ。 それは、戦いが大規模化かつ膠着したことに関係していると言われている。 元々、応仁の乱開始当時、こんなに大規模な戦いとなり、しかも長期化するとは誰も思っていなかったようだ。 そうすると、ある重要な問題が出てくる。 ヒントは、京という1か所に数十万もの軍勢が滞在すると、自然と必要となるものだ。

あっ、そうか!補給線だ。

その通り。 戦いが京の周辺に移っていったのは、自軍の補給線の確保と相手の補給線を断つためだと言われている。 そもそも京に限らず、一か所で数十万もの軍勢を養うには、食糧をどこかから運び込む必要がある。 また、戦いを続けるには、定期的に武器を追加したり、けが人を手当てし戦場から離したり、代わりに新しい兵を連れてくる必要も出てくる。 基本的に、どの大名もこれらの補給は、自分の領地と京の間で行っていた。 特に西軍は、領地が京から離れている大名が多かったため、補給線を断たれることは命取りになるほど重要なことだった。

敵の補給を断てば、敵は戦い続けることができなくなるから、膠着状態を打破できると考えたのね。

なるほど、敵が補給線を狙ってくるなら、逆に自分の補給線を守る必要が出てくるから、京周辺の補給ルートや、そもそも補給元の地方で、戦いが起こるわけだね。

そう。 この一連の戦いから、次のフェーズに移っていくが、その前に大きな動きがある。

西幕府の成立

少しだけ時間が戻るが、7月、管領斯波義廉が罷免され、細川勝元管領に任命されている。

あら? 義政って東軍だったわよね? なんでまだ西軍の斯波義廉管領やってたの? むしろそっちの方が驚きよ。

確かに将軍義政は東軍につく形となっていたが、個人的な感情としては西軍寄りだったとも言われている。 また、おそらく最初はこの戦いは短期で終わるものと考えていたから、次の管領をどうするかは、戦いが終わったタイミングで考えようとしていたのかもしれない。 とにかく、この時まで、管領は特に変更されておらず、政務は管領抜きで行われていた。

でもどうしてこのタイミングで?

どうやら、斯波義廉は、将軍義政に無断で、関東にいる古河公方足利成氏に和睦の提案書を送ったらしい。 この提案書を送った時期については、諸説あるみたいだけど、おそらく1468年の2月か3月頃と言われている。 この時、戦いは西軍有利に動いている時期だった。 斯波義廉は、そもそも関東の足利成氏との戦いを終結させるために斯波氏の当主になったようなものだから、このタイミングで手柄を立てて、当主の地位を確実なものにしようとしたのだろう。 しかし、結果的にこの試みは成功せず、逆に将軍義政の逆鱗に触れる。 管領交代の理由は明らかにはされていないが、おそらくこの斯波義廉の行動が原因だろうと言われている。

あーあ。調子にのって失敗したわね。

その後、9月になると、伊勢に逃亡していた足利義視が京に戻ってくる。

ああ、そう言えば京を離れてたんだっけ? 最近出てこなかったから忘れてたわ。

足利義視は京に戻ると、初め将軍義政の下へ行った。 そこで、日野勝光(ひの かつみつ)など一部の側近を遠ざけるよう訴えたらしい。 日野勝光は、義政の奥さんの日野富子の兄で、義政の側近となっていた。 おそらく、日野勝光足利義視に代わり孫である足利義尚を後継者にしようとたくらんでいると考えていたのだと思われる。

この辺は、将軍後継者問題が絡んでいるんだね。

また、将軍義政は、この少し前、文正の政変で逃亡していた伊勢貞親を呼び戻しており、10月には政務に復帰させている。 足利義視にとって、伊勢貞親は自分を殺そうとした相手だから、政務に復帰するのは命に関わると考えたに違いない。 事実、足利義視と親しい人物が理由をつけて殺害されているし、将軍義政が義視を殺害しようとしているという噂もあったらしい。 ついに11月、足利義視は室町御所を脱出し、西軍がそれを迎えた。

え?足利義視が西軍に行くの?

そう。 これも従来の東軍=細川勝元足利義視、西軍=山名宗全足利義尚という構図と違うところだね。 足利義視が迎えられた西軍では、足利義視を将軍、斯波義廉管領と呼んで、西幕府とも言えるものを構築する。 これにより、将軍足利義政管領細川勝元の東軍に対抗しようとしたと考えられる。

これでついに、曲がりなりにも西軍にも将軍がついたのね。 自称だけど。

東軍と大内政弘の戦い

戦いは3年目の1469年に入る。 この年から、戦いの舞台は摂津国(せっつのくに、今の大阪府兵庫県)や丹波国(たんばのくに、今の京都府兵庫県大阪府)の辺りに移っていく。 前に話した通り、戦いは京周辺に移っていくわけだけど、その戦いの中で、西軍の大内政弘の強大な軍事力が、東軍にとって大きな脅威となっていた。 実際、政弘の軍勢により、山城国は西軍に制圧されつつあったと言われている。 また、政弘は細川氏の領国である摂津国丹波国にも攻め込み、摂津国の細川配下から政弘側に寝返るものが出てくる。 大内軍は優勢だったが、東軍が大軍で摂津国の大内軍に攻め寄せたため、政弘は一度は勝ったものの一旦軍勢を摂津国から引き上げる。

西軍にも幕府ができて、大内政弘がますます勢いづいている感じだね。

確かに、この頃から、前にもまして大内政弘が西軍の主戦力という位置づけとなってくる。 これに対し、軍事力で劣勢に立つ東軍は、逆転するために西軍に対して調略(ちょうりゃく)を始める。

調略?

分かりやすく言うと、寝返り工作だ。 西軍の武将に声をかけ、東軍への寝返りを呼び掛けた。

なるほど。 京の陣取り合戦、補給線確保合戦ときて、次は武将獲得合戦か。

この調略は、1470年になってから功を奏し始める。 1470年2月、大内政弘の本国で、留守を任されていた叔父の大内教幸(のりゆき)が東軍に寝返る。

うわ、まさかの身内の寝返り?!

これはヤバいわね。

しかし、12月には、周防国守護代である陶弘護(すえ もりひろ)により、大内教幸の反乱は鎮圧される。 陶弘護は、初めは大内教幸を受け入れる姿勢を見せておき、時間を稼いで反撃の機会を狙っていたらしい。そして12月になって突如挙兵して、大内教幸を破った。

頼りになる守護代でよかったね。

続き、1471年5月、西軍だった越前国朝倉孝景が東軍に寝返る。

えー。また?!

朝倉孝景って、確か斯波義廉の家臣だったわよね。

そう。 朝倉孝景は、甲斐氏と並び越前国で力を持っていた家臣だけれど、1468年の段階で越前国の戦況が思わしくないため帰国していた。 そして現地で東軍に寝返った形だ。 東軍に寝返る見返りとして、将軍義政と細川勝元から越前国の守護の座を約束されていたらしく、越前国から西軍の勢力をほぼ追い出し、越前国の守護に任命される。

こっちは寝返りが成功したのか。

この朝倉孝景の寝返りにより、東軍の優位が確定したとも言われる。 事実、この頃になると、将軍義政は関東の足利成氏討伐の命令を再開し始める。

関東って、全然出てこないから忘れてたけど、そう言えばまだやってたのね。

関東の幕府軍は攻勢に出て、1471年6月には、足利成氏の本拠地だった古河城を陥落させ、足利成氏は逃亡した。

なんと、ついに関東の戦いも決着がつきそうかな。

ところが、色々あって、そうはならなかった。 だが、この時点では幕府軍が優勢なのは明らかで、このことは京の西軍にも影響を与える。

え?なんで?

前にも出てきた通り、西軍の斯波義廉は、関東の戦いを収めるために家督を相続した。 ところが、斯波氏抜きで関東の戦いが収まってしまうと、斯波義廉家督でいる意味がなくなってしまう。

あ、そういえばそうか。

西軍の大将である山名宗全も、これには動揺したらしい。 彼は元々、斯波義廉の斯波氏家督の立場を守るために肩入れをしたが、それには斯波義廉が絡んでの足利成氏討伐または和睦という実績が必要だと考えていたようだ。 しかし、斯波義廉抜きで足利成氏討伐が可能な見込みが見えてくると、これ以上斯波義廉に肩入れするより、細川氏との関係を修復した方が良いと判断したらしく、和睦に向けた動きを始める。

その5に続く。

その1はこちら

alphaglucose.hatenablog.com