ちょっと詳しい歴史解説 応仁の乱 その3
応仁の乱の背景 つづき
足利義政の後継者
さてこの頃、応仁の乱にとって重要な人物が登場しているので、それも紹介しよう。 1464年、当時嫡子のいなかった将軍足利義政は、出家していた弟を還俗させ、後継者に指名している。この人物が足利義視(よしみ)だ。 ところが、その翌年、足利義政は奥さんの日野富子との間に息子が生まれる。後の足利義尚(よしひさ)だ。
ん?なんか似たケースを前に見たような気がするんだけど・・・。
畠山持国が、弟を後継者にしてたけど、息子に変えたケースと似てるね。 っていうか、これで、息子を後継者にしたい日野富子が山名宗全に支援を依頼したっていうのが定説だったんじゃないの?
確かにそう言われていたが、前にも言った通り、そうではないというのが今の主流の見方だ。 後継者に指名された後、足利義視はどんどん出世していき、幕府内の地位も上がっていくが、義尚が生まれた後も、足利義視が特に軽視されていくような事実は見られない。 また、山名宗全の派閥は、義尚誕生前からでき始めていることも、従来の説を否定する根拠の1つだ。 おそらく、当時子供の死亡率は高く、義尚が無事成人するかは分からなかったことや、仮に成人しても、中継ぎとして義視を将軍にしておくなどの構想があったのではないかと言われている。
そうだったのか。
そういうわけで、この時点では、義視は引き続き義政の後継者であり続けた。
なんか意味ありげな言い方ね。
文正の政変
さて、1466年、つまり応仁の乱の前年、大きな動きがある。 まず、この年の8月、幕府の命により、ついに斯波氏の家督が義廉から義敏に変えられた。
ついに変えられちゃったのね。
次に、その翌月の9月、足利義視殺害未遂事件が起きる。 将軍義政の側近だった、伊勢貞親(いせ さだちか)が、義政に讒言(ざんげん)をし、義視の殺害を訴えた。
讒言っていうのは、人を陥れるために目上の人に嘘を言うことだね。 ところで、伊勢って、前に出てきた政所執事の?
その通り。 将軍義政は、伊勢貞親を政所執事につけ、これまで彼らを側近として自分で政治を行ってきた。 伊勢貞親がなぜ義視の殺害を訴えたのかは不明だけれど、彼は日野氏と近い関係にあったから、義尚を将軍にするために動いたのは、日野富子ではなく、彼の方だったのかもしれない。 対する足利義視は、この動きを察知し、細川勝元の館へ行って無実を訴えた。 これを聞いた細川勝元は、翌日義政に義視の無実を訴え、伊勢貞親を含めた側近、および陰謀に加わったとされる斯波義敏が京都から逃亡した。 これを文正の政変(ぶんしょうのせいへん)という。 この事件により、側近たちを失った将軍義政は、守護大名に対抗して自身で政治を行うことが難しくなっていく。
どうして斯波義敏は陰謀に加わったのかな?
斯波義敏は、家督問題で義政の側近である伊勢貞親とつながりを持っていた関係らしい。 この事件により、1か月にもたたないうちに、斯波氏の家督は義廉に戻された。
早っ!
応仁の乱の始まり
上御霊社の合戦
ついに、応仁の乱が目の前まで迫って来た。
長かったわね。
これでも、かなり端折っているんだけどね。 応仁の乱は、それくらい色んな出来事が複雑に絡み合った結果、行き着いた出来事なんだ。
さて、1466年の12月、畠山義就が河内国から軍勢を率いて上洛(じょうらく)した。
上洛っていうのは、京の都にやって来て入ることだね。
これは、山名宗全が呼び寄せたものだと言われている。 当然、斯波義廉も義就を支援する。 これに対し、畠山政長は、京にある自分の館に立てこもり、戦闘態勢を整えた。 これには、同じ細川勝元派閥の軍も加わっていた。
いよいよって感じね。
年が明けて1467年の正月、将軍義政は、当時管領となっていた畠山政長の館を訪問する予定だったのだが、それが中止された。 代わりに、畠山義就が将軍義政のもとに出仕し、対面している。 そして、将軍義政は、畠山政長に代わって畠山義就が家督につくことを認める。 当然、畠山政長は、管領も罷免された。
やっぱり、軍勢を率いてきたのが効いたのかな?
そうだという説もあるけど、義政自身、前から家督を義就に変えようと考えていたという説もある。 いずれにしろ、これにより、畠山家の家督は義就となり、新たな管領には、斯波義廉が任命された。 これこそ、山名宗全の狙いであり、事実上、細川派に対するクーデターだった。 山名派は、将軍義政のいる室町御所に、足利義視、義尚をかくまい、軍勢で守りを固めた。 彼らを細川派に担ぎ上げられないようにするための措置だった。
ここまでは山名宗全が優勢なのね。
しかも将軍とその後継者たちを保護する辺りも抜かりないね。
一方、家督の地位を取り上げられた畠山政長は納得がいかず、京都の上御霊社(かみごりょうしゃ)に軍勢を置いて陣取った。 細川勝元も畠山政長と合流しようとするが、将軍義政から待ったがかかる。
ん?義政はもう山名宗全の味方なのかしら?
いや、そうじゃない。 義政の言い分としては、今回の畠山政長の挙兵は、彼と畠山義就の一族同士の争いである。よって、他の家の者が手を出してはいけない、というものだった。 一応、話としては、道理にかなったものだとは思う。
それはそうだけど、散々他の家の家督に介入したお前が言うなって感じよね。
まぁそれもそうではあるけど、ここで細川勝元の合流を許すと、それこそ収拾がつかなくなるのは明白だった。 義政は、彼なりに京都での戦乱を回避しようとしていた。 これに対し、細川勝元は、山名宗全が畠山義就に合流しないことを条件に承諾する。 これにより、大規模な戦乱は回避されたように見えた。
まぁ努力と成果は認められるね。
さて、双方合流が禁止されたわけだが、1467年1月18日、上御霊社に陣取った畠山政長軍に対し、畠山義就が攻めかかり、上御霊社の合戦が始まる。 この上御霊社の合戦が、その後約10年続く応仁の乱の始まりとなる。
ついに始まったわね。
ただし、先に述べたように、将軍義政によって合戦への有力な守護大名の合流は禁止されており、この時点では、あまり大きな戦いには発展しないまま終わっている。 合戦は夕方に始まり夜中も続き、明け方に畠山義就の勝利に終わる。 敗れた畠山政長は逃亡した。
ここでも山名派の勝利か。
しかし、細川勝元もこのまま黙ってはいない。 彼は、細川一族の領国から軍勢を呼び寄せ、京に集結させており、京では気の抜けない状況が続いていた。 そして5月に入ると、細川勝元は巻き返しを図る。 味方の諸大名を派遣し、ほぼ同時に、西軍のメンバーが守護を務める領国に攻め込んだんだ。 赤松政則(あかまつ まさのり)は、山名宗全が守護を務める播磨国(はりまのくに、今の兵庫県)へ、斯波義敏は、斯波義廉の領国である越前国へ、細川派の土岐政康(とき まさやす)は、山名派の一色義直(いっしき よしなお)の領国である伊勢国(いせのくに、今の三重県)へ攻め込んだ。
3方向同時攻撃とはやるわね。
そして、細川勝元は合わせて、京へ軍を送るよう自分の派閥の諸大名に号令をかける。 これに対し、山名宗全も同様に諸大名に対し、軍勢を京へ集結するよう呼びかける。 誇張はあると思うが、東軍16万、西軍11万の軍勢が京に集まったと言われている。
ついに両軍の軍勢が集結したか。
細川派は細川勝元の館周辺に、山名派は山名宗全の館周辺に、それぞれ本陣を置いた。 この2つの館の位置関係を見ると、細川勝元邸が東側に、山名宗全邸が西側にあったことから、細川派の軍を東軍、山名派の軍を西軍と呼ぶ。 ちなみに、今京都の名産となっている西陣織りの「西陣」というのは、この西軍が本陣を置いた場所に由来している。
こんな昔の出来事の名残が今も残ってると思うと、面白いわね。
東軍・西軍のメンバー
さて、ここから本格的に戦いが始まるわけだけど、その前に東軍・西軍の主要メンバーを紹介しておこう。
そういえば、両軍3人ずつしかよく知らないわね。
これが、1467年の東軍、西軍の勢力図だ。 水色は東軍についた守護大名、黄色は西軍についた守護大名、緑は東西それぞれについた人物がいて、勢力が伯仲している地域だ。
1467年の勢力図(Wikipediaより引用)
ざっくり、近畿地方・四国は東軍優勢、中国地方は西軍優勢、中部地方は半々って感じかな。
近畿地方・四国で東軍優勢なのは、細川氏や畠山政長の領国が多いため、中国地方というか、今の兵庫県・鳥取県より西で西軍優勢なのは、山名の領国が多いのと、大内の領国があるからだ。 中部地方は2分されている感じだね。
そう言われてみると、特に違和感ないようにも見えるわね。
この地図はかなり単純化されているけど、実際には守護ではない在地領主の武士たちも東西両軍に分かれているし、同じ家の中で、一方は東軍、もう一方は西軍を分かれたケースもあった。
こういう天下分け目の戦いのときは、どちらが勝っても家が生き残るように、あえて一族が分かれるケースもあったって聞いたことがあるな。
確かにそういうケースもあったと思うけど、単純に家の中に争いがあって、相手が東軍についたから自分は西軍につく、といったようなケースもあったようだ。
畠山・斯波に限らず内紛は多かったのね。
さて、東軍・西軍のメンバーを全員挙げると切りがないので、主要メンバーだけ紹介していこう。 まずは一覧。
東軍 | 西軍 |
---|---|
細川勝元 | 山名宗全 |
畠山政長 | 畠山義就 |
斯波義敏 | 斯波義廉 |
赤松政則 | 大内政弘 |
京極持清 | 土岐成頼 |
武田信賢 | 一色義直 |
- 細川勝元(東軍)
まずは細川勝元。さっきまで出てきた東軍の大将だ。 彼は、三管領の1つである細川家に生まれ、13歳の時に父が亡くなったのをきっかけに家督を継ぐ。第7代将軍足利義勝(よしかつ)の時代のことだ。 細川氏は、歴史的に見ると、足利将軍家がピンチのときに管領となり、補佐役として成果を残している印象がある。 しかも、諸大名との合意に基づいて政治を進めており、将軍に代わって権力をほしいままにしている印象もない。 また、一族の結束も強かったようだ。 こうしたことが総合的に組み合わされてのことだと思うけど、他の有力守護大名と違い、応仁の乱の頃まで大きな内紛や将軍家からの干渉は無く、畿内・四国中心に一族で何か国もの守護職を持つ、当時日本一と言っても過言ではない有力な守護大名だった。 前に出てきた通り、当時の管領で強い力を持っていた畠山持国に対して山名宗全と組んで対抗して、持国を隠居に追い込み、管領の座に就く。 その後、一時期他の人に管領の座を譲ったりしているが、断続的に管領を務めている。 畠山家では畠山政長、斯波家では斯波義敏を支持し、山名宗全と対立するようになり、応仁の乱では東軍の大将となった。
いわゆるエリートってやつね。
- 山名宗全(西軍)
次に山名宗全。こちらもさっきまで出てきた西軍の大将だ。 宗全というのは出家後の名前で、出家前は山名持豊(もちとよ)と名乗っていた。 彼が成人した時の将軍は、第4代の足利義持(よしもち)だったから、東軍の大将である細川勝元に比べかなり年上だったことになる。 山名家は、前に出てきた侍所所司を務める四職の家柄であり、伯耆国(ほうきのくに、今の鳥取県)など山陰地方を中心に守護職を持っていた。第3代将軍の足利義満(よしみつ)の頃には、一族で11か国の守護職を持つ超有力大名だった。日本全体で66か国だったことから、数字の上では日本の6分の1を山名氏が領国としていたことになる。そのため、当時の山名家当主は「六分の一殿」と呼ばれた。
6分の1って。すごい!
だが山名氏は力を持ちすぎたために将軍義満に狙われる。 将軍義満の策略により内紛が起き、それがもとで幕府の討伐を受けてしまう。 結果、11か国あった守護職のほとんどを没収され、大きく力を落とすことになる。 しかし、その後再度守護職を増やしていき、山名宗全の頃には幕府でも有数の有力守護大名となっていた。 彼は応仁の乱開始時点ですでに出家して家督を息子の教豊(のりとよ)に譲っていたが、山名氏のトップとして君臨し続けていた。 前に出てきた通り、畠山持国への対抗上、細川勝元と協調路線をとっていたが、その後、畠山家では畠山義就を、斯波家では斯波義廉を支持したことで細川勝元と対立することになり、応仁の乱では西軍の大将となった。
なかなかの苦労人なのかしら。
畠山家のこの2人については、今までさんざん説明してきたから、省略。
まぁ。そうだね。
なんで畠山義就の画像しかないの?
畠山政長の画像が見つからなかった・・・。
あっそ・・・。
同じように、斯波家のこの2人も省略。 と行きたいところだが、斯波氏に関連して人物を紹介しておこう。 当時、斯波義廉は越前国の守護だったが、その有力な家臣に朝倉孝景(あさくら たかかげ)がおり、応仁の乱でかなりの活躍を見せる。
確かにそうだけど、朝倉氏は越前国では、それに次ぐ有力な家臣だった。 そして、朝倉孝景の代に、越前国では甲斐氏を上回る実力を持つようになる。 その結果、のちに越前国は朝倉氏が戦国大名として君臨することになる。
ここではもう下剋上が起こってたんだね。
- 赤松政則(東軍)
次は、赤松政則(あかまつ まさのり)。東軍だ。 彼が東軍についた理由はただ1つ、本拠地の播磨国(はりまのくに、今の兵庫県)を山名氏から取り返すこと。 彼は大変な苦労人で、彼が生まれたころ、赤松氏は守護大名ですらなかった。
よく分からないけど、分かりやすい理由でいいわね。
あれ?赤松氏は四職の1つなんじゃなかったっけ?
確かに室町時代の途中まではそうだった。 赤松氏は、播磨国を本拠地とした有力な守護大名だった。 ところが、赤松氏の当主が、第6代将軍足利義教(よしのり)を殺害してしまったことから幕府の討伐を受け、一度守護大名としては滅亡していた。
将軍殺害って、凄いことしでかしわね!
赤松政則は、何とか生きのびた赤松一族の子で、ずっと赤松氏再興を目指して活動を続け、ついに功績をあげて加賀国(かがのくに、今の石川県)の半国の守護に任命された。 しかし、彼は赤松氏の本拠地である播磨国の守護が欲しかった。 当時、播磨国の守護は山名氏で、赤松討伐の功績に対する褒美として与えられ、そのまま受け継がれたものだった。 そういう事情で、赤松政則は、山名氏から播磨国を取り返すために東軍についていた。
彼には負けられない戦いがあったのね。
- 大内政弘(西軍)
次は、西軍の主力の1人、大内政弘だ。
前にちょっとだけ出てきたね。
山名宗全が味方に引き込んだ、大内教弘の息子だ。 応仁の乱発生当時、大内教弘は亡くなっており、息子の大内政弘が跡を継いでいた。 前にも言った通り、大内氏は、周防国・長門国を本拠地とし、事実上、九州を統括する有力な守護大名だった。第3代将軍の足利義満の時代には、6か国の守護職を持つ有力守護だったが、義満と対立して敗れたため、周防国・長門国の2か国のみに守護職を減らされた。 その後、北九州の問題に積極的に介入して功績をあげ、九州探題の渋川氏に代わって、幕府から九州を任されるまでの地位となる。
大内といえど、順風満帆じゃなかったんだね。
後で出てくるけど、大内政弘のおかげで、西軍は東軍とまともに渡り合ったのではと思われるほど、大内政弘が西軍についた意味は大きかった。
- 京極持清(東軍)
次は、東軍の京極持清(きょうごく もちきよ)。 京極持清は、細川勝元のおじに当たることから、東軍についた。 京極氏は、祖先は佐々木(ささき)氏といって、近江国(おうみのくに、今の滋賀県)を本拠地とした有力な武士だった。鎌倉時代、佐々木氏は4つの家に分かれる。そのうち有力となったのは、本家に当たる六角(ろっかく)氏と分家の1つである京極氏だった。 六角氏は近江国の南半分を、京極氏は北半分を領地としていたが、京極氏はその他にも飛騨国(ひだのくに、今の岐阜県)や出雲国(いずものくに、今の島根県)などの守護も兼ねており、四職の地位も与えられ、幕府内では京極氏の方が立場が上だったようだ。
分家の方が立場が上だったのね。
- 土岐成頼(西軍)
次は、西軍の土岐成頼(とき しげより)だ。 土岐氏は、代々美濃国(みののくに、今の岐阜県)の守護だった。 美濃国では、守護代である斎藤(さいとう)氏の力が強く、そのトップである斎藤妙椿(みょうちん)が事実上、家中を取り仕切っていた。
- 武田信賢(東軍)
次は、東軍の武田信賢(たけだ のぶかた)だ。
武田ってもしかして、戦国時代の武田信玄(しんげん)の関係者?
武田信玄の家である甲斐武田氏とは、元は同じ一族だけど途中で分かれた家だ。 彼は若狭国(わかさのくに、今の福井県)の守護で、甲斐武田氏と区別して若狭武田氏と言われる。 実は若狭武田氏の初代は信賢の兄で、功績により若狭国の守護を与えられたのが始まりだ。信賢は2代目に当たる。また、彼は安芸国(あきのくに、今の広島県)の守護も兼ねていた。
- 一色義直(西軍)
最後に、西軍の一色義直(いっしき よしなお)だ。 彼が西軍についた理由は、武田信賢から若狭国を取り返すこと、そして細川氏から三河国(みかわのくに、今の愛知県)を取り返すことだ。
どこかで聞いた話ね。 というか、さっき武田信賢のところで、若狭国の守護は功績で与えられたって、もしかして・・・。
そう、将軍の命により、当時の一色氏の当主である一色義貫(よしつら)を討ち取った恩賞として、彼の持っていた若狭国の守護職が武田氏に与えられたんだ。 また、三河国の守護職は細川氏に与えられた。
それって、すごい恨み持ってたんじゃ・・・。
一色氏は、足利家の分家で、元々は四職の1つとなり、若狭国を始め、丹後国(たんごのくに、今の京都府)や伊勢国、三河国などの守護職を持っていた。 しかし、第6代将軍足利義教と対立し、当主の一色義貫が討たれてしまう。 その後、紆余曲折を経て、一色義貫の息子である一色義直が当主となった頃には、丹後国と伊勢国半国の守護となっていたが、若狭国、三河国は取られたままだった。
しかも、殺された当主の息子とか、恨み深いわね。 それにしても、こうして見ると、それなりの理由があって東軍・西軍についていたのね。
応仁の乱がここまで大きくなったのは、室町時代通して積もり積もった対立が、畠山氏・斯波氏の対立と武力衝突をきっかけに、一気に爆発したからだったんだ。 その意味では、起こるべくして起こった戦いだったとも言えると思う。
その4に続く。
その1はこちら。