グルコースのブログ

思ったことや好きで勉強したことなどを紹介します。

家紋で見る戦国大名 毛利家

こんにちは、グルコースです。

戦国シミュレーションゲームで有名な「信長の野望」などでは、各戦国大名のシンボルとして、家紋が使われています。

地図上で、各大名の所有する領土(城)を示すのに家紋が使われていますので、私もそうでしたが、初めのうちは家紋だけ見てもどの大名か分からず、苦労した覚えがあります。上級者(?)の方になると、さすがに家紋を見ればどの大名か分かるようになりますが、家紋自体の名前や詳細など、家紋をまじまじと見たりはしない方もいるのではないでしょうか。

そのような方向けに、戦国大名の家紋を紹介していきたいと思います。

家紋は、歴史ドラマなどでも、旗などに描かれたりしますので、覚えておくとより深く楽しめると思いますよ。

毛利家の家紋 「一文字に三つ星」

今回は毛利(もうり)家です。

戦国時代、安芸国(あきのくに、今の広島県)を中心に、一時は中国地方の大部分を勢力下に置いていた戦国大名です。

毛利家で有名なのは、毛利元就(もとなり)とその孫の毛利輝元でしょう。

毛利家の概要

毛利氏の祖先は、大江(おおえ)氏と言われています。 大江氏は代々学者の多い家系で、鎌倉時代大江広元(ひろもと)は源頼朝(みなもとの よりとも)に仕え、幕府の基礎を作るのに貢献しました。

この大江広元の子の毛利季光(すえみつ)が分家し、領地としていた土地の名前から毛利と名乗ったのが毛利家の始まりです。

戦国時代、安芸国は多くの在地領主が割拠しており、毛利氏はその在地領主の1つでした。 また、西には大内(おおうち)氏、反対には尼子(あまご)氏という2つの大大名が安芸国を自分の勢力下に置こうとしていました。 そのため、毛利氏を含め、安芸国の領主たちは大内氏と尼子氏の間で敵味方に分かれて互いに争っていました。

毛利元就が生まれた1497年当時、毛利氏は大内派に属していました。 元就は次男であり、当主である父が亡くなると、兄が跡を継ぎますが早くに亡くなり、兄の子が幼少で跡を継ぐと、叔父として元就が後見を務めます。

元就、まず1517年、有田中井手(ありたなかいで)の合戦にて、安芸国守護だった武田元繁(たけだ もとしげ)を討ち、名声を得ます。 その後、大内派から尼子派へ鞍替えし、内外での名声を高めていきました。

1523年、後見していた甥が亡くなると、代わって元就が当主となりますが、一部の家臣が元就の弟の相合元綱(あいおう もとつな)を当主にしようと画策したため、粛清を行いました。 この時、同盟を結んでいたはずの尼子氏が相合元綱を支援したと言われており、元就は尼子氏への不信感を募らせ、ついに尼子氏と手を切り、再度大内氏につきます。

1540年、尼子氏の当主の尼子晴久(はるひさ)は、元就討伐のため、元就の本拠地である吉田郡山城(よしだこうりやまじょう)へ、3万もの大軍を派遣します。これに対し、元就は籠城をしますが、人数はわずか8千、しかも大部分は城下から入れた非戦闘員で、戦える兵は約2千~3千程度だったと言われています。

元就は、城に籠りつつ、地形を生かして近づいてくる尼子軍をかく乱しつつ少しずつ撃退し、3万の大軍相手に数か月持ちこたえます。

そうしているうちに、盟主である大内義隆(よしたか)の援軍が到着します。 その数は1万、主力を率いたのは、戦上手で知られた家臣の陶隆房(すえ たかふさ)でした。

大内・毛利連合軍は、尼子軍と戦い勝利し、尼子晴久は本拠地の出雲国(いずものくに、今の島根県)へ撤退していきました。

こうして、大内の援軍があったとは言え、わずか10分の1の戦力で3万という大軍を相手に城を守り切った毛利元就の評判は、更に上がっていくことになります。

一方、敗北した尼子晴久は勢力下に収めていた領主たちの信用を失い、大内氏に寝返る者たちが出てきます。

大内義隆はこれを好機と見て、1542年、尼子氏の本拠地である月山富田城(がっさんとだじょう)を攻略する作戦を実行に移します。これを第1次月山富田城の合戦と言います。

自身の領地に加え、安芸国の領主たちを動員し、出雲国月山富田城へ軍を進めていきます。 もちろん、毛利元就もこれに参加しており、この時嫡子(ちゃくし、後継ぎ)の毛利隆元(たかもと)も同行していました。

しかし、尼子方はいわゆるゲリラ戦術で大内軍の補給線を脅かした上、それまで大内氏に従軍していた安芸国の領主の一部が尼子方に寝返ったことで形成が逆転、大内軍は撤退を余儀なくされます。

この時、大内義隆の嫡子である大内晴持(はるもち)は、逃亡に使った船が転覆して溺死しています。 また、毛利元就毛利隆元も、逃亡中尼子軍に攻められ、家臣が身代わりになってやっと逃げ伸びることができたほどでした。

無事に戻った元就は、戦い以外の方法で安芸国で勢力を伸ばしていきます。

まず、後継者のないまま当主が亡くなった小早川(こばやかわ)氏に対し、三男の隆景(たかかげ)を後継者として養子に出します。

また、元就の妻の実家である吉川(きっかわ)氏で内紛が起きており、反当主派の求めに応じて次男の元春(もとはる)を当主の養子として送り込んでいます。吉川家当主は、その後反当主派の家臣により強制的に隠居させられ、元春が新しく当主となります。

これにより、戦わずに吉川氏と小早川氏を傘下につけた元就は、他にも宍戸(ししど)氏や熊谷(くまがい)氏なども婚姻関係で味方に入れ、安芸国の大部分を掌握しました。

なお、吉川元春小早川隆景は、毛利の両川(りょうせん)と呼ばれ、主力として長く毛利家を支えていくことになります。

一方、元就の盟主だった大内義隆は、先の月山富田城攻めの失敗により嫡子を失い、政治への関心を無くしていたと言われています。 また、これまで重用していた陶隆房などの武断派を遠ざけ、相良武任(さがら たけとう)などの文治派を重用し、家臣間での対立が起きていました。

1551年、ついに陶隆房大内義隆に対して謀反を起こします。この時、大内義隆に従った家臣はわずかであり、陶隆房軍に囲まれた大内義隆大寧寺(だいねいじ)にて自害します(大寧寺の変)。

陶隆房は、かつて大内義隆が後継者候補としたことのある、九州の戦国大名、大友(おおとも)氏の晴英(はるひで)を、大内義隆の後継者として呼び寄せます。 大友晴英は、大内義長(よしなが)と改名し、大内家当主となります。 また、陶隆房は、陶晴賢(はるかた)と改名します。

形式上、大内義長を陶晴賢が補佐する形でしたが、実質的には義長は傀儡に過ぎず、陶晴賢が実権を握っていました。

この事件に対し、大内家を盟主としていた元就は、当初陶晴賢の謀反を認める立場を取っていました。 しかし、次第に元就と陶晴賢は対立していきます。

元就は陶晴賢との戦いを決意しますが、動員兵力は約3万と言われる陶晴賢に対し、元就の動員兵力は4千~5千程度と言われ、普通に戦っても勝ち目はありません。

そこで、元就は、狭くて大軍の動きにくい厳島(いつくしま)に陶晴賢をおびき出し、島に閉じ込めて殲滅する作戦を立てます。

元就は、当初、陶晴賢は元就を警戒しており、厳島への誘いに乗ろうとはしませんでしたが、様々な手で陶晴賢厳島へ誘い出し、ついに1555年、2万~3万と言われる軍を率いて厳島へ上陸し、毛利方の宮尾城を攻め始めます。

これに対し、元就は4千の兵を率い、暴風雨の中、船で厳島へ渡ります。 そしてその翌日、2方向から陶軍に対し攻めかかりました。 それと同時に、あらかじめ元就が味方につけておいた、村上(むらかみ)氏の水軍が、陶軍の乗ってきた船を焼き払いました。

暴風雨のため、毛利軍が来るとは考えていなかった陶軍は大混乱に陥ります。 陶晴賢は、何とか自身の上陸地点まで逃げ延びますが、すでに船は焼き払われた後で、追手の毛利軍から逃げて別の場所で船を探しますが、そこでも船は無く、自害しました。

この勝利の後、元就は大内氏の本拠地の山口まで攻め込んで大内義長を自害に追い込み、九州を除き旧大内領をほぼそのまま領地として得ます。

大内を滅ぼした元就は、今度は尼子氏にターゲットを移します。

実は、厳島の合戦の前の時点で、新宮党(しんぐうとう)と呼ばれる尼子氏の精鋭が、当主の尼子晴久によって粛清され壊滅するという事件が起きており、尼子氏も弱体化していました。 ちなみに、この事件にも、元就が関わっていたという説もありますが、そうではないという説もあり、真偽は定かではありません。

1561年、当主の尼子晴久が亡くなり、尼子義久(よしひさ)が跡を継ぎます。 これを契機に、元就は出雲国へ侵攻を開始します。

なお、この間に、嫡子であった毛利隆元が死去しています。 死因は病死と言われていますが、尼子方に暗殺されたという説もあり、元就は隆元の死を非常に悲しんだと言われています。

隆元の死にもめげず、元就は数年かけて徐々に周辺の城を制圧していき、ついに1565年には月山富田城を包囲します。ここから始まる戦いを第2次月山富田城の合戦と言います。

元就は月山富田城に総攻撃をかけますが、難攻不落と言われた月山富田城は落ちずに被害が大きくなったため、兵糧攻めに切り替えて包囲を続けました。

そして、1566年、尼子義久が降伏して城を明け渡し、戦いは終わります。 尼子義久は幽閉された後、館を与えられましたが、大名として返り咲くことは無く、戦国大名としての尼子氏は滅亡します。

これにより、毛利元就は、中国地方一の戦国大名となります。

かつての2大盟主だった大内氏と尼子氏の両方を滅ぼした毛利元就は、1571年、亡くなります。

毛利隆元の子の毛利輝元(てるもと)が跡を継ぎます。 引き続き、吉川元春小早川隆景が輝元を補佐しました。

この頃になると、中央では、織田信長(おだ のぶなが)が京を中心として勢力を拡大してきており、中国地方にも手を伸ばし始めてきています。

輝元と織田信長は、初めは友好的な関係でしたが、徐々に関係が悪化し、国境を接するころには敵対関係となっていました。

当時、織田信長は、各方面ごとに重臣を司令官として派遣することで領土を拡大する方針を取っており、中国地方の司令官は、羽柴秀吉(はしば ひでよし)、後の豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)でした。

輝元は、他の反信長勢力と連携して秀吉と戦いますが、他の反信長勢力は各個撃破されていき、次第に味方が少なくなっていきます。

秀吉は、宇喜多(うきた)氏など毛利方の領主を寝返らせ、鳥取城を兵糧攻めで落とし、また備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)を水攻めにより包囲され、落城寸前となります。

ここに至り、輝元も、領地割譲の条件での和睦を模索し始めます。

1582年、3か国の織田家への割譲と備中高松城主、清水宗治(しみず むねはる)の切腹を条件に、輝元と織田家(秀吉)の間に和睦が成立します。

しかし、この数日前、京では本能寺(ほんのうじ)の変が起き、織田信長は家臣の明智光秀(あけち みつひで)に討たれてしまっていました。

秀吉は、この情報をいち早く入手し、毛利氏が気付く前に和睦を成立させ明智光秀を討つべく軍を引き返したと言われています。

毛利側も、遅れて本能寺の変の情報を入手し、吉川元春は秀吉を追撃すべきと主張したと言われていますが、小早川隆景が、講和したばかりの状態でそれをすぐに破るのはいかがなものかと主張し、輝元も追撃をやめたと言われています。

その後、輝元と秀吉は反目しあうこともありましたが、1585年、織田信長の後継者としての地位を確立した羽柴秀吉の傘下に入ります。 領地もほぼそのまま領有を認められました。

輝元はその後も、四国征伐九州征伐と秀吉に協力し、120万5千石という、豊臣政権下の大名でも日本第二位の領地を持つ大名となりました。 秀吉の死後は、豊臣秀頼(ひでより)を支える五大老(ごたいろう)の1人に任命されます。

しかし、1600年に起きた関ヶ原(せきがはら)の合戦にて、西軍の総大将となり、徳川家康(とくがわ いえやす)率いる東軍に敗北します。 よく、西軍の大将は石田三成(みつなり)と言われたりしますが、石田三成は現場指揮官のようなもので、総大将の輝元は大坂城にいました。

関ヶ原の合戦の敗北後、輝元は大坂城を退去しますが、西軍と総大将となった輝元を徳川家康が許すことはなく、輝元は隠居させられ、120万5千石だった毛利家の領地は、周防国長門国(すおうのくに・ながとのくに、いずれも今の山口県)の2か国の約30万石にまで減らされました。

しかし、その後、毛利家はこの領地を守り続け、江戸時代末期には、長州藩(ちょうしゅうはん)として、薩摩藩(さつまはん)とともに、倒幕・明治維新の主力となりました。

毛利家の家紋

毛利氏の家紋は、「一文字に三つ星(いちもんじにみつぼし)」です。

一文字に三つ星

「一文字に三つ星」は、星紋の一種です。

家紋では、星は丸形で表現されます。

星紋としては、毛利氏のような3つ星の他、星を9つ配置した九曜(くよう)が良く用いられます。九曜は、インドの占星術に由来しており、土、水、木、火、金、月、日の7つの星に2つを加えた9つの星を表していると言われています。

同種の家紋の人物・家

他に星紋を使っている人物・家としては、以下があります。