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ちょっと詳しい歴史解説 室町幕府の組織構成

こんにちは。ネコやんです。

クマゾーです。

ウサ子です。

今回は室町幕府(むろまちばくふ)の組織構成について解説します。

室町幕府? 聞いたことはあるけど、いまいち覚えてないわね。

確かに、同じ武士の時代の鎌倉時代とか江戸時代に比べると、室町時代ってちょっと地味な印象があるなぁ。

室町時代といってピンと来なくても、戦国時代といえばイメージのわく人は多いと思う。

確か、室町時代の一部が戦国時代と呼ばれるんじゃなかったっけ?

戦国時代がいつからいつまでかという定義については、色んな意見があるから一概には言えないけれど、一般的に室町時代の後半以降を指す。 1573年に最後の将軍である足利義昭(あしかがよしあき)が、織田信長(おだのぶなが)によって京を追放されるまでは、いちおう室町幕府という組織自体は存在していた。

でも、戦国時代って、あちこちで戦いが起きて、弱肉強食の時代だったんでしょ? 室町幕府なんて、あってなかったようなものなんじゃないの?

確かにそれは否定できない。 ただ、有名無実ではあったものの、室町幕府の役職についている人物もいて、特に戦国時代の初期は旧体制の権力者として存在感はあった。 むしろ、京の都周辺では、幕府の権力者の座を巡って戦っていたくらいだ。 逆にいうと、戦国時代に活躍する戦国大名の多くは、これら旧体制の権力者を倒すことで、次の権力者となっていったんだ。 そう考えると、室町時代を理解するのにはもちろん、戦国時代を理解するにも、元々どのような組織構成で日本が統治されていたのかを知るのは重要なことだと思う。

室町幕府の組織構成

これが室町幕府の組織構成だ。

室町幕府の組織図

大きくは、中央、つまり室町幕府のある京の都に置かれた組織・役職と、地方を管理するため各地に置かれた組織・役職がある。 室町幕府というのは、京の都周辺は幕府が直接管理し、それ以外は各地の組織・役職に任せるという考え方に基づいて統治を行っていた。 もちろん、地方の管理方針に幕府が指示を出すことはあったが、地方はかなり独立性が高かった。 まずは、中央から説明していこう。

中央の組織

戦国時代に必要そうなところを中心に説明しよう。 まず、頂点は将軍、正式名は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)で、足利尊氏(あしかがたかうじ)以来、足利家が代々世襲(せしゅう)している。

世襲っていうのは、役職などを代々子孫に受け継いでいくことだね。

そして、その将軍を補佐する役職として、管領(かんれい)がある。 この管領は、足利の分家である、斯波(しば)氏、細川(ほそかわ)氏、畠山(はたけやま)氏の3つの家の中から、その時代ごとで適切と判断された人物が選ばれて任命された。この3つの家はまとめて三管領(さんかんれい)と言われる。

鎌倉幕府かまくらばくふ)でいう、執権(しっけん)みたいなものだね。 三管領のうち、細川氏は、応仁の乱で東軍を率いた細川勝元(かつもと)の家だね。

次に、管領の下に、幕府の運営を行う組織がいくつかある。

まず政所(まんどころ)。幕府の財政を担当する。長官は執事と呼ばれ、途中から伊勢(いせ)氏の世襲となる。

次に侍所(さむらいどころ)。幕府のある京の都の警察・軍事を担当する。長官は所司(しょし)と呼ばれ、途中から山名(やまな)氏、赤松(あかまつ)氏、一色(いっしき)氏、京極(きょうごく)氏の4つの家から交代で任命された。この4つの家をまとめて四職(ししき)と言われる。

四職の1つの山名氏が、応仁の乱で西軍を率いた山名宗全(そうぜん)の家だね。

そして、問注所(もんちゅうじょ)。訴訟文書の管理を担当する。長官は執事と呼ばれ、町田(まちだ)氏や太田(おおた)氏が世襲した。

ここまでが、室町幕府の中央の組織だ。

幕府のあった京に置かれた役職なのね。

地方の組織

さて、次に地方の組織だ。

まず、関東の取りまとめである鎌倉公方かまくらくぼう)。 これは、室町幕府の関東支配の組織としておかれた鎌倉府の長官で、足利氏が世襲した。 鎌倉府は、その名の通り、鎌倉に置かれた。

足利氏って将軍の一族ね。

そう。室町幕府初代将軍の足利尊氏が息子の基氏(もとうじ)を鎌倉公方としたのが始まりで、その子孫が世襲した。基氏は、2代目将軍の義詮(よしあきら)の弟にあたるので、将軍家にもかなり近い血縁関係を持っている。 そして、このことが室町時代通してたびたび問題を起こしている。

どういうこと?

将軍家に血縁が近いってことで、自分にも将軍を継ぐ権利があるんじゃね?って考える人が出てくる。

あ、そういうことね。

初代鎌倉公方の基氏は、そんなことは無かったようだが、2代目の氏満(うじみつ)以降の鎌倉公方は皆、隙あらば自分が将軍になろうとしている。

2代目からって早っ!

しかも、基本的に関東は鎌倉府に任されていることもあり、鎌倉公方は関東では大きな力を持ち、結構な支持者がいた。 だから、いざ関東で戦いとなると、幕府でも手こずるような勢力になることが多かった。 事実、室町時代から戦国時代にかけて、鎌倉公方が原因となった戦いが何度も起きている。

まったく、身内の争いは醜いわね。

次に関東管領(かんとうかんれい)。 鎌倉公方の補佐が役目だ。 中央で、将軍を管領が補佐するのと似た関係になる。

分かりやすいネーミングだね。

関東管領は、代々上杉(うえすぎ)氏が世襲した。 さっき話した通り、関東管領というのは、鎌倉公方の補佐役なんだけど、鎌倉府と室町幕府の連絡役という役目も持っていた。 そのため、鎌倉公方と将軍が対立すると、その間で仲裁役として入ることも多く、鎌倉公方から恨まれることも多かった。

面倒くさそうね。

さて、次は守護(しゅご)だ。 これは、一定地域の軍事統括、治安維持、判決の現地執行に加え、年貢の半分を徴収する権利を持つ。 大抵は国(今の県みたいなもの)ごとに任命された。

今の県知事みたいなものかな。

単純比較はできないけど、国を統括するという意味ではそうだね。 守護という役職自体は、鎌倉時代からあったんだけど、室町時代の守護はその頃に比べ強い権限を持つようになった。 そのため、もう国全体を領地にしてるも同然ってことで、守護に任命された人を守護大名(しゅごだいみょう)と呼んだりする。

守護大名、聞いたことあるわね。

大名って言葉自体は、江戸時代にも出てくるしね。 ところで、守護大名っていうのは、各自1ヶ国ずつ担当してたのかな?

いや、そういうケースだけじゃなかった。 この守護という役職、褒美で与えられたりするんだけど、時代が進むと、一人で何ヶ国もの守護を兼ねたり、一族で多くの国の守護に任命されたりするケースが増えてくる。 そういう守護大名は、軍事的・経済的に強い力を持つようになる。 もちろん、足利将軍家も、御料所(ごりょうしょ)という直轄地は持っていたけど、何ヶ国も支配下に入れている有力な守護大名に比べると太刀打ちできなかった。 だから、将軍が守護大名を討伐する場合は、別の有力な守護大名に動いてもらう必要があった。 こういう背景もあって、将軍が何かを決めるときには、いくつかの有力な守護大名の意見を聞いて決めることが多かったんだ。

なるほど。 力を持ってる守護大名が賛成してくれないと、結局権力行使できないわけか。

そういえば、守護大名は普段どこにいたの? 将軍に意見を求められるってことは、京にいたんでしょうけど、そうすると領地はどうしてたの?

確かに、有力な守護大名の多くは、京の都に住んでいた。 そういう守護大名は、一族の者や有力な家臣を代官として領地に派遣していたんだ。 これを守護代(しゅごだい)と呼ぶ。 普段在京していた守護大名は、領国経営は守護代に任せていた。

ああ、時代劇でよく出てくるお代官様ってやつね。

それは別の時代の話だけど、守護代は、現地では大きな力を持つことが多かった。 戦国時代に下剋上戦国大名になったものの多くは、この守護代クラスだったりする。

さて、最後は探題(たんだい)。 室町時代、今でいう近畿地方中部地方の辺りは室町幕府が直接管理し、関東は鎌倉府が管理することになっており、その他の地域を管理する役職として置かれたのが探題だ。

確かに日本はそれだけじゃないからね。

奥州探題(おうしゅうたんだい)、羽州探題(うしゅうたんだい)、九州探題(きゅうしゅうたんだい)がある。 奥州探題は、奥州、今の東北地方の東側、青森、岩手、宮城、福島の辺りを取りまとめており、大崎(おおさき)氏が世襲していた。大崎氏は、三管領の1つである斯波氏の分家だ。 羽州探題は、羽州、今の東北地方の西側、秋田、山形の辺りを取りまとめており、最上(もがみ)氏が世襲していた。最上氏も、斯波氏の分家だ。 九州探題は、その名の通り九州を取りまとめる役職で、途中から足利家の分家である渋川(しぶかわ)氏が世襲していた。 ただ、渋川氏の勢力は次第に衰え、九州探題は有名無実化していった。

渋川氏ダメじゃない。

渋川氏に代わって、周防国(すおうのくに)・長門国(ながとのくに)、つまり今の山口県を中心とした有力な守護大名である大内(おおうち)氏が実質的に九州の取りまとめをするようになっていったんだ。

結局守護大名なのね。

まとめ

ここまで、室町幕府の組織構成を見てきました。 要点をまとめると以下です。

この解説が少しでも役に立てば嬉しいです。