家紋で見る戦国大名 足利家
こんにちは、グルコースです。
戦国シミュレーションゲームで有名な「信長の野望」などでは、各戦国大名のシンボルとして、家紋が使われています。
地図上で、各大名の所有する領土(城)を示すのに家紋が使われていますので、私もそうでしたが、初めのうちは家紋だけ見てもどの大名か分からず、苦労した覚えがあります。上級者(?)の方になると、さすがに家紋を見ればどの大名か分かるようになりますが、家紋自体の名前や詳細など、家紋をまじまじと見たりはしない方もいるのではないでしょうか。
そのような方向けに、戦国大名の家紋を紹介していきたいと思います。
家紋は、歴史ドラマなどでも、旗などに描かれたりしますので、覚えておくとより深く楽しめると思いますよ。
足利家の家紋 「足利二つ引き」
今回は足利(あしかが)家です。
室町幕府のトップ、つまり武家のトップである足利将軍家です。戦国時代で有名なのは、第13代目将軍の足利義輝(よしてる)と第15代目将軍の足利義昭(よしあき)です。
足利将軍家は、立場上大名を統括する立場であり、普通の戦国大名のような両国運営はしていないので、正確には戦国大名と言えないと思いますが、「信長の野望」では大名と位置付けられているので、良しとします(笑)。
足利家の概要
足利家は、元々下野国(しもつけのくに、今の栃木県)の足利を領地とした一族で、清和源氏(せいわげんじ)です。鎌倉幕府を開いたので有名な源頼朝(みなもとの よりとも)と同じ祖先をもちますので、家柄としては源氏の主流に位置します。
戦国時代になると、足利将軍家は力を失い、後ろ盾となる大名がいなければ、将軍となることもできない状況となっていました。
そんな戦国時代の将軍として有名なのは、先に書いた通り、第13代目将軍の足利義輝と第15代目将軍の足利義昭でしょう。
足利義輝と足利義昭はともに、第12代目将軍である足利義晴(よしはる)の息子で、兄弟です。
兄である足利義輝は、義晴の嫡男(ちゃくなん、後継ぎ)として、第13代目将軍となりますが、その人生は三好長慶(みよし ながよし)との戦いの連続でした。義輝が将軍となった頃、幕府の実力者は管領(かんれい、将軍の補佐役) の細川晴元(ほそかわ はるもと)でした。父の義晴と細川晴元は長年争っていたのですが、この頃には和解していました。
しかし、細川晴元の家臣だった三好長慶が、同じ細川家で対立していた細川氏綱(うじつな)に寝返ったことで、細川氏綱・三好長慶が優勢となり、細川晴元・足利義輝は敗れて京都を追われます。
その後、細川晴元は細川氏綱・三好長慶と和睦(というか降伏に近い)し、足利義輝は京都に戻るものの、細川氏綱、というかその裏にいる三好長慶の監視下に置かれます。三好長慶は、名目上は細川氏綱の家臣でしたが、事実上、三好長慶が細川家含め全体を取り仕切っていたのです。
義輝は、その後も何度も三好長慶と戦いますが、そのたびに敗れます。三好長慶と戦う→敗れて京都を追い出される→和睦して京都に戻る→また三好長慶と戦う→敗れて京都を追い出される→・・・という無限ループ(?)を繰り返していました。
そんな中、三好長慶が亡くなります。これで無限ループから解放されるかと思いきや、今度は長慶の死後三好家を取り仕切るようになった、「三好三人衆」と呼ばれる3人と、三好家臣の松永久秀(まつなが ひさひで)と対立することになります。
足利義輝は、当時の将軍には珍しい剣の達人で、のちに「剣豪将軍」というあだ名をつけられるほどでした。
また、自身の名前の一字を積極的に各地の戦国大名に与えたりもしました。名前を与えることは、その大名に対する自分の権威を高めるのに加えて、大名からお礼を受け取り、財政に寄与するという一石二鳥の効果がありました。
さらに、当時最先端の武器だった鉄砲に着目もしており、個人的には優秀な人物だったのではないかと考えています。
しかし1565年、足利義輝は対立する三好三人衆と松永久秀らの策略により、御所を1万の軍勢で攻められ、殺されてしまいます(永禄の変、えいろくのへん)。
その剣の腕前を発揮し、敵兵を数十人倒してひるませたほどだったと言われていますが、多勢に無勢で討ち取られてしまいました。
この時、義輝の弟である足利義昭は、奈良の寺院で出家しており、一時は捕らえられましたが脱出し、兄の跡を継いで将軍となるべく、後ろ盾となる戦国大名を探して各地を流浪します。このため、のちに「流浪将軍」とか「貧乏公方」というあだ名をつけられています。お兄さんとの扱いの違いが酷い・・・。
そして、流浪の末、当時急速に勢力を伸ばしていた織田信長(おだ のぶなが)を後ろ盾として京都へ戻り、第15代目将軍となります。
ところが、将軍として自由にやりたい義昭と、そんな義昭の行動に干渉する信長はやがて対立し、ついに義昭は各地の戦国大名に信長の討伐令を出します。当時、中央で勢力をのばす信長に反発していた各地の大名はこれに応え、信長の周りは敵だらけとなります。これは「信長包囲網」と呼ばれ、信長は長い間この対応に追われることとなります。
しかし、各地の大名は信長によって次第に各個撃破され、1573年、足利義昭は信長に京都を追放されます。一般には、これにより室町幕府滅亡とされています。
なお足利義昭は、京都追放後も、中国地方の毛利氏の下で、将軍としての仕事は続けており、同時に懲りずに信長討伐を訴え続けていました。
そして、信長が亡くなり、豊臣秀吉の天下となった頃、ようやく京都に戻り、人生を終えます。
足利家の家紋
足利家の家紋は「足利二つ引き(あしかがふたつひき)」です。
一見分かりにくいかもしれませんが、真ん中に黒い横線が1本ではなく、白い横線が2つということで、「二つ」引きです。
「足利二つ引き」は、引両(ひきりょう)紋の一種です。
引両紋は、何らかの模様を基にしたものと考えられていますが、何を意味しているのかは定かではないようです。
形としては、黒か白の線が縦か横に1本または複数本並びます。1本なら「一つ引き」、2本なら「二つ引き」というような名前となります。また、横線が基本形で、縦線の場合は、「縦二つ引き」のように名前に「縦」とつきます。
引両紋を使った家としては、足利一族やそれと同じ祖先を持つ新田(にった)氏が有名です。
なお、 家紋で見る戦国大名 豊臣家・羽柴家でも書いた通り、足利家は、足利尊氏(あしかが たかうじ)の時に朝廷より桐紋をもらっており、桐紋も家紋として持っていました。
同種の家紋の人物・家
他に引両紋を使っている人物・家としては、以下が有名です。